『仏陀の証明』(その3) 誤った「無我」論の修正

 

入会間もないEさんが、大川総裁が再誕の仏陀であることを、どう説得的に説明すればいいかを聞きに来られ、その続きとして、今回は、誤った「無我」論の修正について学びます。

以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回の「降魔成道」は、非常にリアルな内容なので驚きました。
それで、その次は何ですか?

【お助けマン】 第三点目は、誤った「無我」論の修正です。つまり、釈尊が仏教を説かれてから2500年の年月が経っていますが、 その間、仏教が間違いなく伝わったかと言えば、そうでもないところがあります。もし、再誕の仏陀である大川総裁がそれをご覧になられたならば、どうされるのか。過去にご自分で説かれた教えであるが故に、必ず修正されるはずです。実は、これも仏陀の証明なのです。

【Eさん】 では、その間違って伝わった教えとは何ですか?

 

【お助けマン】  はい、それは色々とありますが、まず「無我」の教えです。ところでEさんは、旅行でホテルに泊まられたときに、聖書ともう一つ、左のカバー絵の「仏教聖典」(仏教伝道協会)が備えられているのをご存知ですか?

【Eさん】 はい、よく知ってます。私は、仏教に興味がありますので、ときどき読んでいました。

【お助けマン】 それでは、その仏教聖典の後ろのほうに用語解説があって、「無我」について、次のように書かれていたことを覚えておられるでしょうか。

無我(anatman)
仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえるべき実体はない」ということである。 それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我”を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、 ”永遠の存在ではありえないこの世の存在や現象に実体があるわけはない”と説いたのは当然である。 なお、””は他宗教でいう霊魂にあたるといえる。

と、書かれています。
つまり、「無我」とは、「我(アートマン)」を否定すると同時に霊魂をも否定しています。
また、PRESIDENT Onlineの企画で、7つの仏教法人に「霊魂はあるか」との質問状を送ったときの回答について、グラフで表した分かりやすい表がありましたのでご紹介します。
何と、日本の仏教人口を持つ最大の浄土真宗では霊魂を認めていません。

【Eさん】 えっ!今、初めて知りました。
仏教で霊魂を否定する考えってあるのですか!では、何のための供養なんですか。じゃ、なぜ、子孫がお墓で手を合わせるのですか!

【お助けマン】 そうです、びっくりされるでしょ。
無我とは、我はない、だから死んだら何もかもなくなると言うのです。ですから霊魂もないと言っています。 難しく言えば、この誤解は、人間の存在を、「五蘊(うん)の仮和合(けわごう)」であると、唯物論的に解釈するところからきています。
その五蘊とは、「色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)」と言って、「色」は、肉体、「受」は、感受性、「想」は、表象作用、つまりイメージ力、「行」は、そのイメージを具体化する行動、そして、「識」は、認識作用とバラバラにして認識する方法です。
従って、人間は、それらが仮に合わさって存在しているだけであって、吹けば飛んで消えていくような無常なものなのだ、だから、死ねばバラバラになって無くなってしまう存在、それが人間なのだとする考えなのです。
でも、それでは釈尊が説いた「成仏」という言葉や、いつも釈尊がおっしゃっていた「過去七仏」(注1)の説明がつきません。

【Eさん】 そんな大誤解を再誕の仏陀がそのまま放置されるわけはないですよね。 まことの仏陀なら必ず修正されるはずです。だって、まったく解釈が逆ですもの・・・。
ところで、今まで修正されなかったということは、シンデレラのガラスの靴のように、修正できることに合った人が、2500年の間、居なかったということでしょうね。

 

【お助けマン】 そうです。だから、再誕の仏陀である大川総裁は、無我について何度も何度もその修正のために説かれているのです。 まず、左のカバーの絵にある『悟りの挑戦(上)』第4章「無我とは何か」の中で説かれていますので、その部分を朗読します。

釈迦が無我を説かなければならなかった理由の一つは、「結局、人生の苦しみのほとんどは執着にある」というところです。 執着とは、何かに執(とら)われることです。 この執着のもとにあるものが「我」なのです。我欲。あるいは「我あり」と思う心。 あるいは我見(がけん)――我でもって見る、自我でもって見る、自分に非常に都合のよい偏(かたよ)りのある目で見る。 こうした我に基づく見方や欲望によって、人生の苦しみはすべてできているのです。
---(略)---
その執着のもとは、すべて「我あり」です。「自分」というところがあるのです。 これを否定しないかぎり、どうしても執着は断てません。

とあり、この「我」から離れなさい、という教えが「無我」であって、決して我がないのだから死んだら終わりだ、と言った訳ではなかったのです。

【Eさん】 分かりやすいですね。あの難しい「無我」の解説が一言ですね。
当たり前ですよね。だってご本人ですもの!

【お助けマン】 この無我の解説をお坊さんが聞いたら頭がよじれるでしょうね。
そして、大事なことは、この「無我」の教えはその人のためだけの教えではないということです。 つまり、人生の苦しみの原因が、この我見や我欲からきていることが示されたということは、この無我の教えを人々が理解し実践することによって、人生の苦しみから解放されることを同時に意味しているのです。

【Eさん】 あっそうか。これは、心の教えであると同時に、人々を苦しみから解放する救済の教えなんだ。だから、この教えを広めることによって人類を救済することができるのですね。そういうことでしたか・・・。

 

【お助けマン】 そうです。さらに、その「無我」の教えを進めて、「無我中道」という教えも説かれています。 それが、この左のカバー絵の『悟りの挑戦(下)』第5章「無我中道」のところです。
その中で、「仏教学に対する重大な修正」と題して述べられているところがありますので、その部分を朗読します。

4 仏教学に対する重大な修正
以上の話しで、私がなぜ無我を問題にしているかということが、かなりわかったと思います。 要するに、無我の思想を心の調律の問題としないで物理的実体論としていった場合には、このように仏教の自殺に流れていきますから、 これはどうしても間違わせるわけにはいかない、ということを言っているのです。
そして、このように述べていること自体が仏教学に対する重大な修正をしているわけなのです。

とあります。まさしく誤った「無我」論を修正され、正しい「無我」論を2500年を経て再度説いておられるということです。

【Eさん】 この部分も、まさしく再誕の仏陀の証明ですね。

 

【お助けマン】 そうです。またさらに、この無我の教えを進め、左のカバーの絵の『心の挑戦』第5章「無我観の効用」では、 単に「無我」の誤った理解を正されるのみならず、無我の実践によって弱くあってはならないと、過去に説かれた無我の意味をさらに強固にして法を進められています。
そこから一部を朗読いたします。

 自分自身は無我なのですが、それが相手の我を増長させるようなことになってはなりません。 この種の誤りは時々起きるように思います。・・・・地獄的な発想をしている人が、そういう無我の人を見ると、非常にお人好しで騙しやすく見えることがあるのです。
そのように、人を利用しようとか騙そうとか、あるいはその人から奪い取ろうという人に対して、その無我の気持ちが、逆に彼らの欲を増長させ、火に油を注ぐようなことになってはならないということを、よくよく知っていただきたいのです。
これは智慧のところなのです。苦しみを増大させるのが智慧であるはずはありません。 苦しみを減らすことが智慧であるはずです。
---(略)---
正しく導くためには、善悪を知らなければなりません。善を得るためには、悪を知らなければ駄目なのです。 悪を知っていてこそ、善というものを選び取っていくことができるのです。善悪の区別がつかなくては、善というものをつくりだすことはできないのです。 悪を知って、悪に染まらない。悪を手に入れることができても、悪を手にしない。そこに善が現れてくるのです。この区別を知っていることが大切です。

とあります。
ここで大切なことは、執着を去る「無我」から、さらに法を進めて、相手の悪を増長させない積極的な無我論を説いておられることです。 この2500年の間、釈尊が説かれた仏教の真意を誤解するような中で、誰がこのように仏教理論をさらに進められるでしょうか。それは、仏陀ご本人でなければ出来ないことであることは明白です。

【Eさん】 分かりました。仏教を勉強していない私にも誤った無我と正しい無我の違いがよく分かりました。さらに、仏教を進められたということも理解できました。
ましてや、仏教をよく勉強している仏教学者なら、大川総裁がお説きになった分りやすい解説に、腰を抜かすぐらいにもっともっと驚かなくてはいけないですよね。

【お助けマン】 そうですよ! 実際、仏教大学で学んだお坊さんが、学校での仏教の授業が分からなかったが、大川総裁のご著書で仏教の真意が分かったという方が多いのです。 大川総裁が説かれる仏教理論が分りやすく、また、その真意も分ると言う事実こそが、再誕の仏陀の証明であると言えるでしょう。
以上、誤った「無我」論の修正について説明しましたが、大川総裁が、再誕の仏陀であることに全く疑いの余地がないということです。

と、お助けマンが解説してくれましたが、無我とは、自分の執着を去るだけでなく、相手の悪を増長させるものであってはならないと、はっきり再誕の仏陀は述べられました。 とかく心の修行者は、怒らないだろう(空心の怒りだが)と甘く見られがちですが、それは大きな誤解です。仏陀を批判し、誹謗・中傷する輩に対しては、断固として許さないと言うことです!
これが、幸福の科学が単なる仏教の再来ではないと言うところでもあると思います。 では、また続きます。次回は、仏陀の証明(その4)です。

(注1)「過去七仏」『悟りの挑戦(下)』187ページ

釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)とその以前に生まれた六人の仏、古さの順に、<毘婆尸仏(びばしぶつ)><尸棄仏(しきぶつ)> <毘舎浮仏(びしゃふぶつ)><拘留孫仏(くるそんぶつ)><拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)><迦葉仏(かしょうぶつ)> を指す。釈尊当時、ラ・ムー、トス、クラウド、ヘルメス等の自分の過去世をインド的な名称で語っていたもの。 しかし、現在では、単なる多仏信仰として伝わっている。つまり、過去にも仏陀がいて、釈尊はそのころ菩薩としての修行を積んでいたという話にすりかわっている。

(その3 終わり)