悟りと信仰心は同じもの?

勉強熱心な会員のGさんがやってこられました。何でも信仰心がここに来て非常に大事になってきたのですが、それと悟りとどう関係するのか、聞きに来られたのです。

【Gさん】 こんにちは!
主の復活には、私たちが強い信仰心で祈ることが非常に重要だと伺っているのですが、それと、今まで教学や反省修行してきた「悟り」とどう関係するのか、それを聞きたくなってやって参りました。つまり、悟りと信仰心とは別のものと思うのですが、どうなんでしょうか?

【お助けマン】 それは、難しい問題ですね。お寺のお坊さんや、教会の神父さんに聞いても分からない問題でしょうね。だから、私に答えられるのかどうか・・・。

【Gさん】 私も難しい問題だと分かっていますので、ヒントや考え方だけも頂ければと思ってやって参りました。

【お助けマン】 分かりました。そういうことでしたら、今の私の探究中の段階での意見として聞いていただければと思います。

【Gさん】 はい、よろしくお願いします。

【お助けマン】 まず信仰心ですが、昔の時代では人々の心が素朴だったので、あの世があることや、神や仏がおられることは自然な形で信じていたように思います。ところが、時代が下り、人々が学校で多くを学ぶようになってきてからは、反対に信仰心が薄れてきたと思います。

【Gさん】 そうですね、西欧では中世以前では教会の力も強く、人々は自然な形で信仰を持っていましたが、デカルト以降に知性が重んじられることによって、人々の信じる力が低下したように思います。

【お助けマン】 そう言えば、日本においては、先の大戦において日本神道の力が大きかったことの反動で、戦後、政教分離が推し進めらた結果、教育の場から宗教的なるもの、また、科学で証明できないものは排除されましたね。だから、あの世もある訳がないと、あの世がなければ、霊もなし、当然、神も仏もなしとなってしまいましたね。

【Gさん】 そうですよー。だから、頭のいい人ほどあの世は信じず、勉強すればするほど信仰心はなくなっていったと思います。一方で、悟りは教学を必要とするので、勉強すればするほど信仰心は無くなっていくんじゃなかと思ったのです。

【お助けマン】 なるほど、そう思いましたか・・・。
確かに、科学が進み、また知識が増えれば増えるほど、信仰心は低下するように思えますね。ただ、知識がなく素朴であれば信仰心があるというのも問題なのです。

【Gさん】 と、いいますと?

【お助けマン】 逆にね、不思議なものや人間の能力を超えるものをありがたがって、アニミズムの世界に落ち込む危険性があるんですよ。例えば、ヘビや狐を拝んだり、河原の石を拝んだり、これらは信仰に何の根拠もありませんよね。

【Gさん】 あ、そうか。信仰心があると言っても何でもかんでも拝むのも問題ですよね。そう言えば、日本のつい100年前まで、霊能者が狐つきを追い出すために煙でいぶしたら本人も死んでしまったという事件がありましたね。今ではそんなことはありませんが・・・。

【お助けマン】 ですから、知識も必要なんです。最低限の常識にはそれなりに正しいことがあるので、学校教育も必要なところはあります。だって計算もできなければ困るでしょう。
大事なことは、知識の質、あるいは内容なのです。

【Gさん】 それは何ですか?

【お助けマン】 ずばり言えば、知識は知識でも「真理」を学ぶことです。学校では、数学、理科、社会、国語など学びますが、その中に真理なるものはわずかしかないと思っていいでしょう。強いて言えば、道徳に少しあるぐらいです。ちなみに最大の真理とは、「あの世はある」「神仏は存在する」「死んだら皆霊になる」「人間は転生輪廻を繰り返している」です。

【Gさん】 じゃ、悟りと信仰心との関係はどう考えればいいのですか?

【お助けマン】 そうでしたね。質問を忘れてました。
今の学校で学べば学ぶほど信仰心は無くなっていくと言いましたが、それは、真理を教えてはいないからなのです。真理とは、これは神の理(ことわり)、神のお考え、つまり、「法」なのです。

【Gさん】 じゃ、その真理である「法」を学べばどうなるのですか?

【お助けマン】 真理は、学校で学ぶ教科のさらなる上にあって、本当は、科学の探究の延長線上にあるものなのです。

【Gさん】 えー! でも、今は科学をどんどん研究すれば、信仰心がなくなっているじゃないですか? 科学者のほとんどはあの世を信じていませんよ! あの世があると言えば、「非科学的なことを言うな」といつも言われます。

【お助けマン】 それは、科学がこの3次元の世界の中に限定されればおっしゃるとおりです。しかしながら、科学とは本来、未知なるものを探究するものであるならば、3次元世界を超えて、4次元、5次元、6次元、・・・とさらに未知なる世界の探究へと向かわなければ、それは本来の科学の精神に反することになるのです。

【Gさん】 それはそうですが、現実はそうなってないですね。

【お助けマン】 そうです。ですから現在の科学は、本来の科学の使命を何ら果たしてないと言えるのです。その使命を果たしているのが、宗教なのです。ただ、ここにも条件があって、時代に合った正しい宗教と言う意味です。

【Gさん】 そうか、「幸福の科学」が、宗教でありながら「科学」という文字がつけられた意味が分かりましたよ。これが本来の本当の科学ということですね。
でも、難しいですよね、見たり触ったりできないことを本当のことだとどうして確認できるのでしょうか? それこそ、確認できないから不可知論者のようになってしまうのではないかと心配するのです。

【お助けマン】 実際に見たい触ったりできないものは存在しないとなれば、それは唯物論者となり無信仰者となります。じゃ聞きますけど、あなたはスマホをもってますよね。

【Gさん】 当然でしょ。持ってないと連絡に困りますもの。

【お助けマン】 じゃ、あなたはスマホが利用している電波を見たことがありますか?

【Gさん】 そりゃないですよ、だって見えないじゃないですか!

【お助けマン】 だったら見えないのに、なぜあなたはあると信じられるのですか?

【Gさん】 そりゃ、町の中では電波が強いし、地下だったら不通になるし、山奥にいけば通じなくなるので、電波は見たことはないけど、あることを感じてますよ!

【お助けマン】 そうでしょう。だから、色々な事象によって間接的ではあるけれどもその存在を知ることができ、そして、その事象を数多く知ることによって、当初は「そうかな」と思っていたことが、「そうに違いない」、さらに、「これは事実だ」と「確信」へと変化していくのです。
真理の勉強は、これと同じで見ることも触ることもできなくても「学べば学ほどに確信として固まる」ということなのです。

【Gさん】 そうか、学べば学ぶほどに、見えないものであっても「事実の確認」のようになっていくということなのか・・・。

【お助けマン】 そうです。さっきのスマホの電波と同じで、至るところで通話状態を経験することによって、目に見えない電波があることが「分かる」ということです。だから、どれだけ多くのケースを体験して知っているかということが、その確信の度合いを決めるのです。実は、このことは、「悟り」と「信仰心」との関係でもあるのです。

【Gさん】 えー! 関係があるって、どういうことですか?

【お助けマン】 つまり、さっき多くのケースを知ることは、その確信のレベルを高めると言いました。かつて「釈迦に八万四千の法門あり」と言われ膨大なお経が残されていますが、これだけ多くの教えであるケースを学ぶことによって、見えないことを揺るぎのない「確信」へと変えていくことができるのです。ですから、学びが信じるということを押し上げるということなのです。

【Gさん】 あー、分かった。つまり、さっきのスマホの電波と同じで、多くのケースや法則などを勉強して知ることで、目には見えないがその存在をより強く信じることができるということなのですね。

【お助けマン】 そうです。そのとおりです!
だから、学べば学ぶほど、それが真理であれば「悟り」は高まり、また、同時に確信のレベル、つまり信仰心が高くなるということです。
今、大川総裁は、3100書を超える書籍を出しておられますが、これらは現代の大蔵経です。ですから、学んで悟りが高まれば、確信度が高くなるので、イエス様が霊言でもおっしゃっているように「悟りと信仰心は実は同じもの」ということが言えるのです。この事実は、悟りを求める仏教と信仰心を重視するキリスト教をまた架橋することにもなるでしょうね。

【Gさん】 あっ、そうか。だから仏教の教えもキリスト教の教えも含んでいる主エル・カンターレの教えなんだ。さらに政治の教えや世直しの教えもあるので、イスラム教の教えなど過去の全ての聖者が説いた教えが幸福の科学の教えにあるということなのか・・・。
今日は、いい学びになりました。何か今までのもやが晴れたように思います。それでは今日はこれにて失礼します。ありがとうございました。

と、言ってGさんは帰られました。真に学べば学ぶほど悟りは高まり、それと同時に信仰心も高まる、それこそが主エル・カンターレが、人類に降ろされた秘宝ではないでしょうか。これによって、地球上の2大宗教である仏教とキリスト教は、愛の発展段階説とともに架橋されるという地球神のご意図が、また少し分かったように思います。
またさらに、実在世界の4次元、5次元、6次元、7次元、・・・という次元構造は、悟りの段階であると同時にまた信仰心の段階でもあると学んでおり、やはり、悟りと信仰心とは同じものであると言うことを確認した次第です。

主エル・カンターレに感謝。

(終わり)