祈りは立派な修行

毎日、熱心に「復活の祈り」を続けておられるGさんが来られました。
以下は、Gさんとの会話です。

【Gさん】 こんにちは!
今日、時間ができたので、また来させていただきました。いつも教えていただきありがたく思っています。

【お助けマン】 ようこそおいで下さいました。
ところでGさん、ここ2、3か月でずいぶんと変わられたように思うのですが・・・。

【Gさん】 えっー! そうですか。私は、以前と何も変ってないと思うのですが・・・。

【お助けマン】 私も霊的には、にぶいのでよく分からないのですが、何か、後光というか、オーラというか、体全体が輝いているように見えるのです。何か、変わったことでもあったのですか?

【Gさん】 いやー、特に変わったところはないと思うのですが・・・。
ただ、ここのところずっとお祈りを続けていて、自分のことはあまり考えなくなったのかなと思います。だって、今は主の復活を願う心でいっぱいですから・・・。

【お助けマン】 それは、「無我」の境地が進んだ証拠ですよ。
ちょっと待って下さい。祈りと無我の関係が『悟りの挑戦(上)』163ページの後ろのほう書かれていたように思います。あっ、ありました。そこのところを少し読みますね。

無我とは、物理的物体としての「我」が無いということを言っているわけではありません。無我なるものの本質の一つには、「あなたは神仏と一体にならなくてはいけない」という部分があります。己を空(むな)しうしなければ、神仏と一体にはなれません。「自分が自分が」と思う心が強ければ、神の光も射してきません。
神仏と一体となるためには、仏教的に言えば、もちろん反省瞑想がありますし、キリスト教的に言えば、神への祈りもあるでしょう。ひとりで神に一生懸命祈るのもそうでしょう。「神仏と一体となる」、これが一つです。
無我になる方法として、もう一つは、「利他愛他」があります。

と、あって、無我となるためには、キリスト教的に言えば「祈り」もあるとおっしゃっています。実は、幸福の科学の教えは、仏教とキリスト教の両方を併せ持っていますので、祈りも非常に大事なのです。

【Gさん】 私は、過去世には仏教に縁が深かったのか、反省や瞑想、そして、座禅が好きで、どうも祈りは他力なので修行にはならないと思って、あまりやってこなかったのです。

【お助けマン】 幸福の科学に早くから信者になられた方には、過去世に仏教に縁が深い方が多かったと思います。その方がたは、おっしゃるように自力を重んじて、あまり祈りをしなかったように思います。ただ、今、主のお言葉を読み上げましたように、「祈り」も無我に至るために非常に重要な「修行」だということなのです。

【Gさん】 修行ですか・・・。 祈りは修行だと思っていませんでした。
でも、ほぼ毎日、復活の祈りを続けさせて頂いておりますが、祈るにはエネルギー要りますので、これも立派な修行だということが何か分かるような気がします。

【お助けマン】 そうですよ。祈りは、立派な修行ですよ。
なぜなら、自分の計らい心を捨てて、自分をどこまでも透明にし、ただひたすらに神仏に感謝の念いや願いを捧げさせていただくからです。
そして、それは1回だけではなく回を重ねることに意味がありますので、回を重ねることによって祈りを自分の習慣とし、それでもって魂の実力とすることができるからではないでしょうか。

【Gさん】 そうですね。祈りを始めた当初は、何か力んでいたように思うのですが、最近では自然と「生かされている」と言う感謝の心が湧いてきて、それが自然な形で祈りになってきたように思います。
自分では後光がどうということはまったく分かりませんが、ここのところ体も軽いし、悩みもなく、また、自分の損得はまったく気にもならなくなったので、少し神様に近づかせていただいたのかなと思っています。

【お助けマン】 今回、復活の祈りを日本はもとより、世界全国の信者が時間を決めて一斉にお祈りをする、それは、光の束となって天上界に届くと同時に、それがまた祈っている信者の一人ひとりに後光となって還元されたということではないでしょうか。
ですから、これはもうエル・カンターレの慈悲です。主の復活を祈ると同時に、祈っている人にも光がもたらされる。これを神の慈悲と言わずして何と言えばいいのでしょうか。主の無限の愛を感じます。

【Gさん】 はい、それこそが、本物であることの証明でしょうね。
それにしても、それを分からない人たちがまだまだ世に多くいることは非常に心が痛みます。ましてや、主を攻撃するまったく無知な人たちがいることは残念なことです。
今日も気づきのある話しをいただきありがとうございました。それでは、これから支部の復活の祈りに参加いたしますので、これにて失礼します。

と、言ってGさんは帰っていかれました。今回、私たちは主の復活を願い、毎日、復活の祈りを捧げさせて頂いていますが、このような祈りは過去にはなかったことです。うがった見方ですが、主は、私たちに祈りを通して神仏と一体となる機会を与えられたのでないか、そして、この祈りを通して「大量の天使たち」を創造しようとされているのではないか、世の中に、偶然と無駄はないとよく言いますが、この復活の祈りこそ、これは私たちの魂の「復活」の祈りではないかと思った次第です。

主エル・カンターレに感謝。

(終わり)