信仰は事実の確認から信じ切るへ

またまたGさんが来られました。支部で、信じ切ることと100%の信仰が大事だと言われてやって来られたのです。

【Gさん】 こんにちは!
またまたやって来ました。昨日、支部に行って「復活の祈り」をしたときに、導師の支部長から「信じ切ることと、100%の信仰の大切さを考えて下さい」と言われたのですが、なかなか思いつかなくて・・・。

【お助けマン】 そうだったのですか。私も単に信じることと、信じ切ることはどう違うのか、考えているところでしたのでちょうど一緒に考えられますね。

【Gさん】 お助けマンさんも思案中だったのですか。ちょうど良かった。途中でもいいのでヒントを下さいよ。

【お助けマン】 分かりました。それでは、私個人の思案中の内容としてお話ししますね。
まず、信じるという行為は、自分では確認したこともないが、誰かが言ったことを本当だと思うことだと思います。そして、その本当だと思うことには、内容について本当だと思うものと、発言者によって本当だと思うものの二通りがあると考えられます。

【Gさん】 じゃ、その二通りについて、もう少し分かりやすく言ってもらえないですかね。

【お助けマン】 はい、簡単に言うと、前者の内容によるものとは、その内容が納得いくものであって、色々な角度から見ても矛盾がなく、また合理性もあってその真実性によって信じようということです。一方、後者の発言者によるものとは、「あの人が言うなら間違いがないので信じよう」ということです。
そして、この二通りには、順序があります。つまり、はじめから発言者を信じることはできないので、まずは、その発言者が言った内容が本当であると思うところから始まるのではないかと思います。つまり、順序があるということです。

【Gさん】 なるほど。それはそうですよね。はじめからあの人に言うことなら信じようということにはなりませんものね。
じゃ、その内容によって信じるということは具体的にどういうことなんですか?

【お助けマン】 はい、人類の歴史の中で、以前では単に信じるしかなかったことが、探究や研究が進んで「事実の確認」がなされ、その結果、皆が確信できるようになったことが多くあります。
例えば、コペルニクスが唱えた地動説は、当初、少数の人たちだけに信じられていたが、その後の天文学の発展によって事実として確認された。大陸の発見だって同じでしょう。だんだんと大陸が発見されて、世界地図が出来、人々は実際には行ってないが、全大陸の存在を確信するようになったのではないでしょうか。
また別の例として、水は水素と酸素が化合して水になりますが、当初は、仮説でしかなかったので、それを信じるしかありませんでした。そのことについて、経典『大川隆法 初期重要講演集ベストセレクション⑤勝利の宣言』第4章「伝道の精神」の177ページにこのように述べておられます。

みなさまがたは、「水の成り立ち」を聞いていて、「水は水素原子二つ、酸素原子一つでH2Oとして出来上がる」と聞いているでしょうが、そんなのを自分の手で確かめたことがありますか。大昔に化学の実験でしたような気がするかもしれないけれども、自分自身、それを、材料を集めて実験したことがありますか。どれだけの方がそれをしましたでしょうか。あえて言わせていただきますが、そうでもないけれども、それを信じているでしょう。この”信ずる”とはいったい何だ。
それは、「かくすれば、かくのごとき結果が起きる」というようなことを、他の人が実際に実験してみせた、経験してみせたということを、その人がまさかそんなことで世を惑わす必要もないであろうから、そして、自分もそれが合理的だと思うから、受け入れているのでしょう。‥‥(略)‥‥
これが、幸福の科学が「科学」であるところの理由であります。なんと、この「信仰」という言葉は「科学」という言葉に近いことでありましょう。それは事実そのものだ。「それを認めることによって、すべては出発する」と言っているのです。

と、あります。

【Gさん】 あーそうなんだ。そう言えば、昔、『新説・八正道(改訂・新版)』にもあったような気がするんだけど、その本、ありましたっけ?

【お助けマン】 ちょっと待って下さい。本を探してきますので。
あー、ありました。ちょっと長いですがせっかくですので、そこのところを読みますね。34ページからです。

「信仰」というと、みなさんは、どこか遠いところにいる神仏を拝んだり、他力を頼んだりするイメージが強いかもしれません。しかし、「信仰の原点」はいったいどこにあるかというと、「みなさんが神仏によって創られた」という創造の秘密にあるのです。「みなさんが神仏によって創られた」ということを信じるか、そして、「神仏によって創られたみなさんが、永遠の生命のなかで無限の転生輪廻を繰り返しながら魂修行をしている」という説を信じるかということです。まず、これを問われているわけです。
これを信じるとき、そこに「信仰」が始まります。この信仰がない場合には、何も始まらないのです。信仰という土台の上に、「愛」も「知」も「反省」も「発展」もあるわけです。「正しき心の探究」もそうです。すべてに、信仰という土台があるのです。
したがって、信仰心というものを安易なものに思ってはなりません。あるいは、手垢(てあか)のついたものとして考えてはならないのです。そうではなく、もっと深い根源的なものです。
この「信仰心」と言うべきものは、従来使われている「信仰心」という言葉で表現される内容ではありません。ここでいう信仰とは「事実の確認」そのもの、「真実の確認」そのものであるということです。そうした「大いなる叡智の断片を見た」ということであり、「仕組みを見た」ということの確認です。

とあり、これまた、信仰とは「事実の確認」とあって、通説の信仰心の解釈とは異なり、ここでも、むしろ科学的とも言える表現をなされています。ですから、霊なら何でもいい、摩訶不思議なことなら何でも信じるという「イワシの頭も信心から」での安易な信仰は否定されているのです。

【Gさん】 なるほど。こうなると宗教と「本当の意味での科学」とは一緒だということじゃないですか。

【お助けマン】 そうですよ。
もちろん全てのことが事実として確認される訳ではありませんが、当初は未知なるもので信じるしかなかったことが、探究が進んで事実の確認のレベルになることがあるのです。
例えば、あの世の世界であっても、大川総裁による600書を超える霊言があれば、それは、たとえ自分が体験していなくても、霊界と霊人の存在を「事実」として受け入れるのが近代人としての態度でしょう。
しかしながら、これだけの実証のある中で、結果的にあの世の存在を認めなかった知の巨人と言われた立花隆は、残念ながら知識人ではなかったということです。多くの臨死体験を取材して分析したにもかかわらず、非科学的に狭い唯物論で判断してしまったということでしょうね。

【Gさん】 それこそ、唯物論という邪教を信じてたということですかね。

【お助けマン】 あなた、いいことを言いますね。
そういう意味では、彼は唯物論教への信仰心が強かったんですよ。これは冗談ですが・・・。

【Gさん】 それはそうとして、その事実の確認と信じ切るとはどういう関係にあるのですか?

【お助けマン】 そうそう、そうでしたね。
まあ言ってみれば、エベレスト山に登るみたいで、昔、だれも頂上まで登ったことがなかった時代では、途中にどのような岩壁があるかは分かりませんよね。しかしながら、実際に頂上を目指して登るにつれて、今まで想像して信じるしかなかった部分が、段々と「事実の確認」レベルに置き変わって、その結果、エベレスト山全体をより確実にその存在を「信じ切る」ことができるようになったのだと思います。

【Gさん】 分かりました。要するに、知れば知るほど確信が高まり、それによって信じる力が押し上げられて強くなるということですね。

【お助けマン】 そうです。
ですから、大川総裁が3000冊を超える書籍を出されていることは、本当にありがたいことで、真理を、それこそ360度の全方位から眺めて解説して頂いているのですから、それだけ「事実の確認」ができることを意味します。それによって、全体の確信の度合が高まり、結果的に信じ切ることができるということだと思います。

【Gさん】 分かりました。ということは、真理を学べば学ほど信仰心は強くなるということでしょうか。

【お助けマン】 そのとおりです。
さらに、その次の段階として、その人が発している内容に対して納得がいき、事実の確認ができて確信が強まってくると、今度は、その人に対する信じる力が芽生えてきます。つまり、「この人の言うことなら間違いがないので信じよう」となります。これが、法を説く方への信仰となっていくのです。
そして、そのときに重要なことは、もし、自分に理解できないことがあった場合、それは自分が勉強不足で理解できないだけであって、素直に教えを聴いていこうと思い、ただひたすらに「主を信じ切ることが大事」となります。それが、主エル・カンターレへの純粋なる信仰となっていくのです。

【Gさん】 分かりました。信じ切るためには、まず、真理を学んで理解することによって確信度を増していくことが大事だということですね。そして、真理の理解と確信が進んだならば、今度は法を説かれる主エル・カンターレへの純粋な信仰へと自分の心境を上げていくことが大事だということですね。
今日は、信じることについて聞きにきたのですが、あらためて教学の大切さと、それを経た「主への絶対の帰依の精神」の大切さを学んだように思います。
では、今日はこれにて帰ります。

と言って、Gさんは帰られました。私たちは恵まれています。今、経典が多すぎて読めないと言っている人もいるようですが、大川総裁の3000冊を超える書籍は、現代の大蔵経であって、これは人類に与えられた宝の山であります。これらの経典は、宇宙の秘密や、神仏のお心を知ることができる奇跡の現れと言えるでしょう。
私たちがこれだけの経典を頂いておりながら、聖書の一冊で、あれほどの信仰心を持って伝道しているキリスト教の信者さんの信仰心に負けるとするならば、主エル・カンターレに本当に申し訳ないと思います。
頂いている3000冊をすべて読破し、主を信じ切り、100%信仰心で報恩していかなければ、本当の弟子ではないと思った次第です。

主エル・カンターレに感謝。

(おわり)