『仏陀の証明』(その4) 死んだら皆仏さまになる?

 

入会間もないEさんが、大川総裁が再誕の仏陀であることを、どう説得的に説明すればいいかを聞きに来られ、その続きとして、今回は、「死んだら皆仏さまになるのか」を再誕の仏陀は、どうご覧になるのかをテーマとしました。

以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回の「誤った「無我」論の修正」では、釈尊の説かれた真実の「無我」論がよく分かりました。それで、「仏陀の証明」のその次は何ですか?

【お助けマン】 第四点目は、死んだら皆本当に仏さま(仏陀)になるのかです。
つまり、釈尊は、2500年前に一切の衆生に仏性(人間がみな持っている仏の子としての性質)があると実際に述べられました。 確かに、存在するものの全てには、ある理念をもとにして創られた形跡があります。これを仏性と言いますが、それじゃ、誰でもが何も努力もしないで仏さまになれるのか、あるいは、死んだら皆仏さまになるのかというところだと思います。

【Eさん】 でもね、世の中では死んだら仏さまと言いますよね。刑事もののドラマでも、殺された被害者を仏さまと言ってますし、また、死人に手を合わせること自体が仏さまになられたということじゃないですか?

 

【お助けマン】  では、再誕の仏陀なら、それをどうおっしゃるのか、そこを見ていきたいと思います。
それでは、この左のカバー絵の『悟りの挑戦(下)』第6章「仏性と成仏」のところの部分を朗読してみたいと思います。

仏性があるということは、仏様になれる可能性がある、要するに如来の素質があるということなのですが、では、それは一切衆生、 すべての人が「悉皆(しっかい)成仏」――現実に仏になれるということを意味するのかということです。
「仏性がある以上なれるのだ」という単純な考え方もあれば、「仏性はあるが、なれる人となれない人があるのだ」という考え方も当然出てきます。 ここのところが大きな問題として出てきたわけです。
この問題は、言葉を換えると、「本覚(ほんがく)と始覚(しがく)の論争」とも言われます。「本覚」とは本覚思想ともいい、「もともと仏性を持っているということは、 本当は人間として生まれたときから完全に悟った存在なのだ」、あるいは「生まれてくる前から悟った存在なのだ」という考え方なのです。 本覚の思想は、天台宗の系統では天台本覚思想ともいいます。比叡山はこの思想です。もともと悟った存在なのだという考えです。
この考えに対して、「始覚」というものがあります。「そうではないのだ。人間は教えを聞いて、修行して、初めて悟りが開けるのだ。修行をして、初めて仏になれるのだ」 という考え方が始覚です。

と、あります。

【Eさん】 では、この「本覚と始覚の論争」に対して、大川総裁はどうおっしゃっているのですか?

【お助けマン】 はい、その続きがありますので、そこを朗読します。

仏性はあっても、五割以上は地獄に堕ちているわけですから、それを救うのが宗教の使命です。 もし、「仏性があるから、みな成仏できるのだ」と言ってしまったときには、宗教の使命はそこでなくなって、放棄したことになります。 これは安易ですし、間違いを含んでいます。新興宗教のなかの間違った流れには、このようなものがすごくあります。
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このように、「何の努力もいらない、みなよくなるしかない」と努力論を切っていくと、結局、そこの教祖は地獄に堕ちるようになるのです。
最澄が地獄に堕ちたのも、おそらく同じ理由だろうと思うのです。ですから、「一切衆悉有仏性」と言うのはよいのですが、これを、 「悉皆成仏」のほうへ強引に持っていったのが最澄ではなかったでしょうか。少なくとも最澄以後の天台本覚思想は現世そのものを肯定し、 腐敗と堕落を生む方向へ向かったのは歴史的事実です。
このせいで、その後の千数百年間、日本の仏教の流れのなかに、間違いなくこの毒水が流れているのです。
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要するに、「仏性があるから、努力しなくても、みんなすぐに如来になれるのだ」という思想は間違いだ、ということです。 可能性は可能性、しかしその可能性、チャンスを使ってどうするか、その結果については平等ではないということです。

と、おっしゃっています。つまり、ここで大事なことは、大川総裁は、最澄が地獄に堕ちていることをご存知であること、そして、最澄によって曲げられた仏教を、仏陀が再誕して、今、また元に戻されているということです。

【Eさん】 これは、仏教の大きな誤解ですよね。こんな大きな誤解を、大学などで深く勉強した賢い学者の人たちは、なぜ分からなかったのでしょうか?  私は、それを非常に疑問に思います。仏教を勉強しなかった私だって、努力しないで如来や仏陀になれるなんて思いはしませんよ!

【お助けマン】 自分に甘かったのでしょうね。ハードルを下げて、勉強も修行もしないでいいんだと考えた人間が、仏陀になれると思ったらその逆で、地獄に堕ちているのです。
何か、昨今のゆとり教育に似ているのではないでしょうか。いつの時代でも自分に甘くなる人たちが出てくるということだと思いますよ。ところで、共産主義的な考え方が、まさしく結果平等を言っており、この「悉皆成仏」論と共通しているところがあるのではないでしょうか。

【Eさん】 これだけ明確に過ちを指摘できることも、まさしく大川総裁が、再誕の仏陀であることの証明ですね。

 

【お助けマン】 そうです。この「仏性と成仏」に関しては、先回の誤った「無我」論と同様に、仏教の思想の根幹部分なので、 さらに、左のカバーの絵の『心の挑戦』第2章「仏性とは何か」で再度、次のように述べられています。
その部分を朗読します。

「すべての人に、仏になる可能性がある、悟りの性質がある」ということは、必ずしも、「すべての人が、如来になれる、仏陀になれる」ということではないのです。 それまでのあいだに、きちんとした適正なる過程を経なければならないということが、一つの注意事項として入る、ということを忘れてはいけません。
現代の日本には、さまざまな宗教が流行(はや)っています。それらを見ていて気になるのは、新宗教のなかには、因果の理法を踏まえていない、奇妙きてれつなものが非常に多いことです。 そういうことをすれば、なぜ悟れるのか、それがわからないようなことをやらせるところが、ずいぶん多いので、問題だとは思っています。
一方、伝統的宗教のなかにも、もうすでに化石化し、形骸化し、一つの堕落した形態にまでなってしまっているのではないか、と思われる宗教が数多くあります。
それら、新宗教であれ、伝統宗教であれ、共通した傾向性として、「仏性という思想について誤解をしている」ということがあると思います。 つまり、「悟りを得るということを、非常に簡単なことのように考えているのではないか」ということです。 要するに、「みんなが努力して仏にならなければいけない」という考え方から、仏の基準を引き下げてしまうことによって、 「だから、みんな仏になれるよ」と言っている、そういうところがあるのです。

と、あります。ここでは、大川総裁は、誤った「仏性と成仏」論を仏陀が自ら修正されると同時に、その間違った悟りを得る方法を指摘され、既存の間違った宗教も明確にされているのです。 これは、仏陀であるからこそできることなのです。

 

さらに、左のカバーの絵の『沈黙の仏陀』には、現代における正しい修行の指針までがしっかりと示されています。

仏陀は2500年前に、インドのクシナガラの地で、地上を去りました。しかしながら、仏陀の遺(のこ)した「三法印」(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)と 「戒・定・慧という三学の修行指針」は、今もなお残っています。その三法印、三学という仏教の基本が、本書を熟読することによって、あなた方自身のものとなるでしょう。
戒・定・慧の修行は、「沈黙の仏陀」の教えです。沈黙のなかに、その修行方法を守っていくなかに
――
私についてきなさい。
ただ、ついてきなさい。
私の後ろ姿を見て、ついてきなさい。
私の坐る姿を見て、あなた方も坐りなさい。
私の悟る姿を見て、あなた方も悟りなさい。
――
この、沈黙の仏陀の声が聞こえてくるはずです。
仏陀はいまだ死せず。その思想のなかに、教えのなかに、修行論のなかに、生きつづけています。そして、この永遠の仏陀の沈黙せる声が、本書のなかにまた静かに谺(こだま)しています。
本書がいったい誰の思想によって著されているかを、あなた方はしみじみと悟ることになるでしょう。沈黙を守りつづけた、その仏陀の声そのものが本書であるということを、もう一度再確認されることを祈ります。

と、仏陀の声が胸に響きました。
再誕の仏陀、大川総裁は、2500年の時空を超えて改めて悟りに至る修行論を現代に蘇らせられました。本当に心より仏陀に感謝です。

以上、お助けマンが解説してくれましたが、すなわち仏陀の証明は教えにありです。心を澄まして教えを見れば、守護霊に見守られている人であるならば、大川総裁が再誕の仏陀であることが、天の声を聞くが如く分かることでしょう。
しかし、残念ながら、信仰心もなく、悪霊や悪魔からの影響を受けている人には分かるはずもありませんが・・・・。
では、また続きます。次回は、仏陀の証明(その5)です。

(その4 終わり)