空間的観点から仕事を見る ― 並行的に仕事をする

先週に続いてEさんが来られました。 Eさんは、 先週、「時間的観点から仕事を見る ― 縁起の逆算」を聞きに来られた方です。 それで今週より、空間的観点から仕事を見ることについて聞きに来られました。

以下は、Eさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先週は、時間を逆流させた仕事の見方を教えていただきありがとうございました。 そんなことは今まで考えたこともありませんでしたので、非常に新鮮な感じがいたしました。 ところで、今回から空間的観点から仕事を見るということなのですが、 これはどのような内容なのでしょうか?

【お助けマン】 はい、先回の時間的観点からの仕事の見方は、 どちらかと言えば一つの仕事に着目して、それが縁起の理法によってどのように変化していくかを見ることによって、 現在にやるべき仕事を決めていくというものでした。
一方、この空間的観点からの仕事の見方は、現時点においてどのような種類の仕事が必要であるのか、 それら必要な仕事の内容を決めていくというものです。 ですから、時間を固定して現在において必要な仕事を知るということでもあります。

【Eさん】 うーん、今ひとつ分りにくいのですが、 それでは、同時に仕事をいくつもやりなさいということですか?

【お助けマン】 簡単に言えばそのとおりです。

【Eさん】 でも人間は、同時にいくつもの仕事をするのは難しいと思うのですが・・・。 特に男性は、一つのことしかできないとよく言われていまうよね。

【お助けマン】 はい、そのとおりです。 一般的には同時に複数の仕事をすることは難しいものです。 でも、主婦は結構これに長けているのです。
例えば、食事を作る仕事を見てみますと、 お米を洗って炊飯器に入れて炊いている間に、 味噌汁の具を切って味噌汁を作り、 その間に魚を焼き、そして煮物を作るというように、 多くの仕事を同時並行的にこなしているのです。

【Eさん】 そりゃ主婦は皆そうですよ。 もし、ご飯が炊けてから、味噌汁を作り、味噌汁ができてから魚を焼いていては、 もう何時間もかかってしまいます。 ですから、主婦は必要に迫られてそういう能力を身につけてきたと思います。

【お助けマン】 それは素晴らしいことですよ。 同時にいくつも仕事ができるのですからね。 でも食事は並行して作れたとしても、他の仕事ではどうでしょうか。 例えば、救世運動ではいかがですか?

【Eさん】 いや、それを聞かれるとつらいですね。 いつもそのことが悩みの種でしたから・・・。
例えば、布教誌の配布と言えば、一時そればかりに専念し、また、ご講演会のお誘いと言えばそればかりに集中し、 選挙と言えばそればかりになる。 うーん、ごはん作りでは皆上手に並行して色んなことが出来るのに、 なぜ、救世運動では一つのことしかできなくなるのでしょうか?

【お助けマン】 いい質問ですね。 それこそが今日のテーマですね。なぜ、いつも一つのことしかできないのかと・・・。
先回は、縁起の理法によって現在に行っている仕事を見たならば、その後どうなっていくのかが分ると言いました。 また、その仕事の行く末を知ることによって、現在の仕事を修正して変化させることができるとも言いました。
実は、見方こそ異なりますが、空間的観点から仕事を見る目的も同じなのです。 つまり、この仕事のやり方を続けて行って、将来、最速最短で目的が達成されるのかということを見ることなのです。

【Eさん】 えーっ、それは、どういうこと?

【お助けマン】 先ほどの食事を作るたとえでは、 食事を最短で作るために、ご飯や味噌汁、そして、魚や煮物を並行して作りました。 それと同じように、救世運動だって布教誌の配布や行事のお誘いなどを並行して同時に行えばいいということなのです。

【Eさん】 いやー、それは難しいですよ。 ご飯作りでは並行して何でもできるから救世運動でも同じように何でもしなさいとは、これは難しいですよ。

【お助けマン】 いや、ここで誤解して欲しくないのですが、 私は、ご飯を作るときのように一人の人が何でも同時にやりなさいと言っている訳ではないのです。 もちろん一人で救世運動の各徳目の仕事を並行してできればそれに越したことはありませんが、 やはりその一つひとつの仕事がかなり大きなものですから、複数の人たちに分けて実践し、 結果的に組織として同時並行的にあれもこれも出来るようになればいいと思っているのです。 例えば、布教誌配布が得意な人は布教誌の配布を行い、 行事のお誘いが得意な人はお誘いをし、また、伝道が得意な人は伝道するというようにです。

【Eさん】 なるほどねー、そのとおりですね。 でも、現実的にはそうなっていないのです。 あるときはこれだけ、また、あるときはこれ、 というように、たとえ多くの光の戦士たちが居たとしても同時には一つのことしか出来ていないのが現状です。

【お助けマン】 そうですね。現実にはこれだけ多くの人たちがいるのに、残念ですね。

【Eさん】 そうなんです。何とかこれを卒業したいと思っているのですが・・・。
ところでお聞きしたいのですが、なぜ、多くの人たちがいるにもかかわらず一つのことしかできないのでしょうか?

【お助けマン】 私の個人的な推測で恐縮ですが、 それはね、おそらくオーケストラで言えば指揮者がいないという状況ではないでしょうか。 いや、指揮者が居たとしても、演奏者と同じところに入って楽器を演奏しているのではないでしょうか。

【Eさん】 えーっ、指揮者が演奏者の中に入って演奏したら、 そればかりの演奏になるんじゃないですか?

【お助けマン】 そうです。その通りなのです。
非常に大きな目標として、 この曲を演奏しなさいという指令は非常に高いところからは降ろされていることと思います。 しかしながら、その楽譜はもらっているけれども、 実際にオーケストラのメンバーの一人ひとりに具体的な指揮がなされていないのではないかと思うのです。 だから、ある時はバイオリンだけの演奏になったり、また、ある時はオーボエだけの演奏になったり、 あるいはドラムだけの演奏になってしまっているのではないでしょうか。
つまり、救世運動のリーダは、 救世運動にはどのような種類の仕事があって、その仕事をどのようなメンバーが担当するのか、 それを知って、その人たちに具体的な救世の仕事の指示を、同時並行的に与えなければならないということなのです。

【Eさん】 なるほどね。でも、なぜそれが出来ないことがあるのでしょうか?

【お助けマン】 私が思うに、 おそらく、それらの多くの仕事の全てが立体的に見えていないのではないでしょうか。 つまり、どの仕事の上にどの仕事があって、その仕事の横には何があるのか、これらの関係を難しい言葉で言うと「空間縁起」と言いますが、 これが見えていないではないでしょうか。 だから平面的にしか見えていないからこそ、あれかこれかという二者択一的な仕事になって、 一つのことしかできなくなっているのではないかと思うのです。

【Eさん】 えっ、それって悟りと同じではないでしょうか?

【お助けマン】 さすがEさん、そのとおりです。悟りです。 ですので、現場は忙しいとは思いますが、毎日の反省を重ねて智慧を鍛えていかなければ、 実効的な救世の仕事にはなっていかないということだと思います。 ですから、「反省なくして悟りなし」そして、その反省を日々実践する精進の姿勢は 「信仰心」によってもたされるということなのです。

【Eさん】 はい、よく分りました。 今日は空間的観点から仕事を見ることを教えていただきましたが、 空間的観点とは立体的に仕事を見られることであり、 また悟りでもあることを教えていただきました。 仕事の見方を一つとっても非常に学びが深いことを改めて教えていただいたように思います。 今日も色々と教えていただき、本当にありがとうございました。
次回も楽しみです。それでは、また来週もお伺いいたしますので、よろしくお願いいたします。

と、言ってEさんは帰られました。
今回は、空間的観点からの仕事の見方がテーマでしたが、 仕事と言っても相互の関連を見ないとするならば、非常に平面的にしか認識されないことが分りました。 そのために立体的に仕事を見られることの大切さが分ったわけですが、 それが悟りであるならば、「反省なくして悟りなし」の仏言のように、 日々の反省行の実践がいかに大事であるのかを再認識させていただいたのではないでしょうか。 結局、一つのことしかできないということは、悟りの欠如がその原因の一つであり、 その悟りの欠如は日々の反省行の精進のなさであり、 その精進のなさは信仰心が希薄であると言うことができるのではないでしょうか。

では、次回の問答にご期待ください。
主エル・カンターレに感謝。

(終わり)