幸福の科学の無我の信仰は、盲信にはならない
先回に引き続き、Gさんが来られました。Gさんは、 先回、信仰心の維持について聞きに来られた方です。
以下は、Gさんとの会話の内容です。
【Gさん】 先回は、 信仰心の維持の方法を教えていただきありがとうございました。
今まで信仰を失わずにここまで来れたのも、多くの法友の方々がいたからこそと思いました。 その私の法友の人たちの中に、何があっても信仰を絶対に失わず、 むしろ、そのたびに信仰を強くされている方々がおられます。
そこで、そのような方々はどういう心境によって、あるいは、どういう過程を経てあのような不退転の心境になられたのか、 これを聞きたくてやって参りました。
【お助けマン】 はい、分りました。Gさんもそれを感じておられましたか。 恥ずかしながら、私はその段階に少し入ったかなというレベルなので、 全てを語ることはできませんが、できるだけ参考になればと思ってお話しさせていただきます。
【Gさん】 まず、私がお聞きしたいのは、そのような方々は、 何があっても「主を信じ切る」という信仰心をお持ちなのですが、 それと「盲信」とはどう違うのでしょうか?
【お助けマン】 それについては、 過去の問答で、「帰依と盲信とは違う」ことを述べましたように、 幸福の科学の信仰は、盲信とはまったく違います。 「いわしの頭も信心から」という言葉がありますが、 何でもありがたがって、「いわしの頭」までありがたがるのとは全くわけが違うのです。
【Gさん】 それはなぜですか?
【お助けマン】 その違いを一言で言えば、 智慧があるかないかの違いと思います。
盲信とは智慧がなくてもありがたがってできるものですが、 幸福の科学の信仰には必ず智慧が伴います。 つまり、幸福の科学の信仰における「信じ切る」という心境は、 ある程度、教学や修行の時間を経てこの段階に至っていると言っていいと思います。
初期の幸福の科学では、皆、法ばかりを学んでいました。 それこそ時間があれば、真理の書籍ばかりを読んでいたのです。 そのせいで、伝道のように法を広めることにはあまり意識が向かず、 従って、仏国土ユートピアの達成には残念ながら非常に弱い状況にあったのです。
【Gさん】 そうでしたね。初期の段階では、皆、学ぶほうは好きであっても、 法を広げるほうにはあまり熱心ではなかったですからね。
【お助けマン】 はい、そうです。 ただ、その教学は頭の理解だけに止まっており、 まだまだ行動に転化するところまで至っていなかったと思います。
【Gさん】 それはなぜですか?
【お助けマン】 要は、魂で深く理解するレベルにまで達していなかったということだと思います。 つまり、法が単なる知識か、あるいは情報だったということです。だから行動にまで至らなかったと思っています。
ところが、それに対して大きな転機が訪れます。それが、幸福の科学の正心館の建立だったのです。
【Gさん】 そうそう、確か、1996年8月にオープンしたと思うのですが、 私は、初めて宇都宮の正心館の礼拝室に入ったときに、 涙が止まりませんでした。魂の郷愁を感じるというのでしょうか、何ともなつかしい感じがしたのです。
【お助けマン】 それはそうでしょ。正心館の礼拝室は、天上界の出張所ですから、 皆さん、ある意味で天国の霊界に里帰りをされて、魂が喜ばれたのだと思います。
【Gさん】 ところで、盲信との違いですが・・・。
【お助けマン】 あっ、そうでしたね。 幸福の科学の過去の歴史ばかりをお話してしていましたが、実は、この経緯が盲信とは違うことを示しているのです。
幸福の科学にやって来られた方々には、実は、インドの仏陀の時代に生れていたり、 あるいはヘルメス神の時代に生まれたりと、 何らかの縁がある人たちが多かったように思います。 その人たちが、真理の勉強をして、そして、精舎にて瞑想をしたりお祈りをしたりと、 実は「無我」修行をされていたのです。
【Gさん】 その「無我」修行が、「盲信」とどういう関係があるのですか?
【お助けマン】 確かに、幸福の科学の信仰における「信じ切る」という行為は、 外から見れば、一見、「盲信」と同じよう見えることもあります。 しかしながら、修行を経て「無我」となって信じるということと、何も考えずに信じる「盲信」とはまったく違います。 この違いが分らない人が色々と言っているのではないでしょうか。
【Gさん】 だから、マインドコントロールだとか言ってしまうのですね。
【お助けマン】 そうです。実に、おろかだと思うのですが、 外からの見え方だけで判断してしまっているのです。
余談ですが、かえって外見だけで判断する人ほど、騙されることが多いのではないでしょうか。 だから、ものごとの本質は外見からでは分らないということです。
【Gさん】 それはよく分ります。何でもそうですよね。
脱原発を単純に言っている人を見ると、未曾有(みぞう)の津波で原発が事故を起しただけで廃止せよと言っているんでしょ。 じゃ、なぜ飛行機が落ちたとき、飛行機は落ちるから廃止せよとは言わないんでしょうかね。不思議ですよね。
ところで、幸福の科学の信仰が盲信とは全く違うことは分りましたが、 ではなぜ、多くの信者の人たちが、何があっても信仰を手放さないという心境にまでなられたのですか?
【お助けマン】 大事なところはそこですよね。
「無我」ということは、「我」を振り回さないということです。 一般的に、人びとが集まって自然のままに任せますと、必ず、我が出てぶつかり合います。 しかしながら、今、信者の多くの人たちは、精舎等の修行を経て、かなり無我となっておられます。
実は、その無我と信仰心とは非常に近いところにあると思われます。無我ということは、 結果的に天上界に素直に心が向いており、言わば仏と一体になっている状態でもあるからです。 つまり、無我とは、正しい信仰が立っている状態でもあるわけです。
ですから、今、多くの信者の方々がこの状態になられたからこそ、 主エル・カンターレの高度な法も受け入れられる段階になったと言えるのではないでしょうか。 だから、宇宙人リーディングなどの宇宙の難しい説法や、 宗教では避けられてきた法も大川総裁は出されたのではないかと思っています。
【Gさん】 なるほど、皆が、無我となって自分の我を通さず、素直に高度な法を受け入れる心境に達したからこそ、 宇宙の法や恋愛論も説かれるようになったのではないかということですね。
【お助けマン】 そのとおりだと思います。その段階にならないと、 法が誤解される恐れがあるからです。 空海が最澄に全てのお経を渡さなかったこともそれに似ているでしょう。 ですから、段階というものがあるのです。これは悟りの段階だし、信仰心の段階でもあると思います。
【Gさん】 それにしても、それほどありがたい法が説かれているという真意も理解せず、 信仰半ばにして離れて行った人は残念ですね。
【お助けマン】 そうです。結局、彼らは「自我を抑え切れなかった」ということでしょうね。 法を学んだかも知れませんが、それを実践しなかったということももちろんありますが、 その学びを、自分を偉しとする道具として使ってしまったのではないかと思います。 だから、法が途中から変わったのではないかと誤解してしまったおろかな人たちもいるのです。自分の未熟な知で裁き、 自分が神になってしまったということではないでしょうか。
ですから、無我がいかに重要なのか、大川総裁は、無我については何度も説かれているのです。
【Gさん】 よーく、分りました。
またまた「修行あっての信仰心である」ということがよく分りました。 また、「ただただ素直に信じ切る」ということにも実力があることが分りました。 これは筋金入りです。もう本当に何があっても揺るがないでしょう。 本当に嬉しく思います。
今日もいいお話しをありがとうございました。私もさらに無我となって主を信じ切っていこうと思います。 では今日は、これにて失礼いたします。
と、言ってGさんは帰られました。
先回、「ただただ信じ切る」ことの大切さを述べましたところ、 それはどうすればできるのかという質問がきましたので、今日はその問答となりました。 やはり、信仰の道は段階的であり、かつ、時間を要するものだと改めて思った次第です。
ですから、最澄の説いた「修行をしなくても仏になれる思想(一乗思想)」が、 いかに間違っているかを改めて思い知った次第です。
では、次回も問答が続きます。
主エル・カンターレに感謝。
(終わり)