自分の信仰心がどの程度のものかを知りたい

 

先回に引き続き、古い幸福の科学の会員さんのGさんが来られました。Gさんは、 ご自分の信仰心がどの程度のものかを知りたいと言ってやってこられたのです。
以下は、Gさんとの会話の内容です。

【Gさん】 毎回、色々と聞かせていただきありがとうございます。
何か、私はここに来ることが喜びになってきたみたいです。 ところで、今日、来たのは、最近の大川総裁の霊言で、 たびたび、複数の霊人から私たちの信仰心の不足を指摘されているわけですが、 じゃ、その信仰心の程度をどのようにすれば測ることができるのか、 それを聞きたくてやって参りました。 ちなみに、私自身は、もちろん三帰誓願していますので信仰心はあると思っています。 その考え方でいいのか、それを教えていただきたいと思います。

【お助けマン】 いやー、これは、難しいご質問ですね。 私自身、自分の信仰心がどの程度あるのか、はっきりと述べる自信はありませんからね。

【Gさん】 はい、それを承知でやって参りました。 お助けマンさんの感じるところで結構ですので、よろしくお願いいたします。

【お助けマン】 はい、分りました。では、私個人が感じるところとして述べさせていただきます。
確か、2006年ごろに発刊された 『信仰のすすめ』だったと思うのですが、 信仰心にも発展の段階があると説かれていたところがあったと思います。
ちょっと待って下さい・・・。あっ、ありました。 第3章「信仰とは何か」(質疑応答)の 144ページのところですね。そこを少し読ませていただきます。

 私の著書 『太陽の法』では、「愛の発展段階説」として、「愛する愛」「生かす愛」「許す愛」「存在の愛」 などの段階が説かれています。
それでは、信仰心にも発展段階があるかというと、もちろんあります。
ただ、信仰心には無限に近い発展段階があります。結局、信仰心とは、 究極の仏、究極の神に至る階段そのものなのです。 この階段が、いったい、どのくらいあるのかというと、何千段か、何万段か、あるいは、 それ以上か、それは分かりません。実際には、もっとあるでしょう。要するに、 「信仰心には無限に近い階梯がある」ということです。
「無限に近い階段があるなら、努力のしようがないではないか」と思い、 落胆する人もいるかも知れません。しかし、信仰心の段階は、悟りの段階と同じでもあるのです。

とあり、信仰心の段階は悟りの段階と同じと説かれています。 ですから、三帰誓願をしたからと言って悟ったというわけでは決してありませんので、 信仰心においても、ただ、スタート地点に立ったと言うことに過ぎないと言うことではないでしょうか。

【Gさん】 あー、そうだったのですね。 三帰誓願すれば、もう信仰心があって大丈夫だと思っていましたが、 やはり悟りの階梯と同じで、まだまだ先があるということだったのですね。

【お助けマン】 そうです。 ですから、三帰誓願をしたから、 もうそれで悟りも信仰心もOKだということではなく、これから修行が始まるということなのです。 ただ、その修行と言っても、在家信者と出家者とでは求められる内容と程度が異なるのではないかと思っています。 もちろん、在家信者においてもリーダとそれ以外とでは異なってくるでしょう。

【Gさん】 はい、分かりました。実は、私は在家信者ではありますが、 伝道活動などの救世運動に積極的に参加し、主の理想の実現のために自分の使命を自覚し、 それを果たしたいと思っております。 そこで、そのような信者に求められる信仰心は、いったいどの程度のものが要求されるのか、 それを教えて頂けないでしょうか。

【お助けマン】 はい、分りました。それを知るためには、 教団の初期にリーダを養成されるために説かれた説法が参考になるかと思います。 以前にも述べましたが、信仰心の有無は、「精進の姿勢」と「感謝の心」があるかで判定されるという法が説かれていますので、 その部分を紹介させていただきます。『信仰と情熱』の第4章「栄光への道」のところです。

精進
信仰心があるということは、
一つには、「神仏への道のりを、日々、歩み続ける」ということであり、
これは、「日々、精進し続ける」という姿勢を意味している。
信仰心はあるが精進はしていない」ということは、あり得ない
よいですか。
自分の心を偽ってはならない。
「信仰心はあるが、今のところ精進をしていない」というようなことはありえない。「 信仰心はあるが、精進を怠けている」ということはありえないのだ。
精進なくしては、信仰ももはやそこにないと言わなければならない。
これが一つである。
感謝
もう一つは、
「信仰心が伴うならば、必ずや感謝というものが出てくる」ということだ。
感謝の思いが出てくるのだ。
信仰心はあるが感謝の思いはない」ということは、 ありえない
信仰心があれば、
常に「精進する気持ち」となり、
常に「感謝の心」が起きてくるのである。
この二点を確認するならば、あなたがたが、少なくとも信仰の道に入っているかどうかが明らかになるのであります。
「 信仰心あり」と称しても、感謝の心なき人は、 その信仰心を自らのプライドを飾るために使っているということが言えます。
精進のみはしているように見えても、感謝のない人であるならば、その信仰心ある姿を、自らを飾るために使っているということです。
感謝を必ず伴なわなければなりません。
そうして、感謝を伴う姿勢の中に、謙虚さというものが自然自然に表れてくるのです。

と、あります。

【Gさん】 いやー、これは厳しいですね。すでに20年以上前に、このように明白に説かれていたのですね。 この意味は、たとえ形式や言葉で信仰心があるように振舞っていたとしても、 「精進の姿勢」と「感謝の心」がなければ信仰心は無いに等しいということですよね。 ここを読まれて耳が痛くなった人もいるかも知れません。
そう言えば、私の知っているリーダで、『正心法語』の読む速度が速すぎるのは、 宗教性がなく信仰心がないからだと言っていた人が居たのですが、 その人自身は、反省行もされていなかったし、書籍もたまにしか読まれていませんでした。 そして、何かにつけても感謝がなく小言ばかりを言われていたように思います。 その人こそ、信仰心がなかったということになりますよね。

【お助けマン】 はい、そのとおりです。 日々の精進と、神仏をはじめ万物に対する感謝の心がなければ、信仰心があるとは言えないのです。 これは、在家、出家の区別なく法則として修行者全員に働くということです。

【Gさん】 そう言えば、大川総裁は、 毎夜、反省されているぐらいですから、直弟子である出家者は、毎夜、 反省行を怠ることなく実践されていることと思いますが、それは弟子の信仰心の表れだということですね。
ところで、精進の姿勢の点検は、日々行っていることを見ればいいので分りますが、 感謝の心の有無はどうすれば分るのでしょうか?

【お助けマン】 確かに感謝の心があるかどうかは、 心の中を見ないと分らないという人もおられるでしょう。 しかしながら、心で思ったことは、必ず次の思いや行動につながっていきますので、 それを見れば分ります。 たとえば、感謝の心は、必ず「報恩」の行為となるのです。 もし、報恩の行為がなければ、その感謝はウソとなってしまいますので、 報恩の行為を見れば分るということです。 では、報恩の行為とは何でしょうか?

【Gさん】 報恩の行為ですか・・・。 やはり、主からこれだけの説法を頂いていますので、 それを多くの人々を誘って聞いていただくことであるし、 また、これだけ多くの書籍を頂いているので、それを人びとに献本して差し上げることができなければ、 感謝の心があるということはウソになるでしょうね。

【お助けマン】 そうです。そのとおりです。 大川総裁は週に一冊の本ぐらい献本できなければ会員とは言えないという意味のこともおっしゃっています。 実は、私は会社が終わって帰宅したあと、布教誌「ザ伝道」を各戸に配って回っています。
さて、信仰心の有無の点検ですが、それは、あの世から測られるものですが、 この世の奇跡の現れ方でも分ると説かれています。 その部分が、先ほどの『信仰のすすめ』の続きにありますので、その部分もご紹介いたします。

 信仰心のレベルそのものは、人間のほうでは測りにくいものであり、そのレベルは、 あの世から測られます。
ただ、伝道を実践しているときに、自分から見て「奇跡だ」と思われることとして、 どのようなことが起きてくるかを見れば、ある程度の確認はできます。
信仰心に基づいて、実際に伝道活動などをしていると、 「これは奇跡だ」と思えることが続出するようになります。 「奇跡だ」と思えることが続く度合いや、 その起こり方などを見ていると、 「自分は、だいたい、どの程度の信仰心になってきているのか。 自分は、どの辺の霊の指導を受けているのか」ということが、よく分かるようになるのです。
信仰心のない人には何も起きませんが、 信仰心のある人には、だんだん、意外なよいこと、思わぬよいことが起きたり、 一年前の自分から考えると信じられないような、他の人からのよい反応や、 よい結果が出てきたりすることがあります。

と、これも明確に信仰心のレベルを測れることが説かれています。

【Gさん】 ここのところは、私自身、本当に良く分かります。 実は、私も経験したことだからです。自分の伝道の実力から考えると、 無理だと思えるような伝道の奇跡が次から次へと起きたことがありました。 そして、そのときは、天を見上げて不思議だなと思っていましたが、 やはり、信仰心によって天上界の応援を得ていたということが、今、聞いて分りました。

【お助けマン】 そうだと思います。 ですから、もし、伝道を会社のセールス行為か何かのつもりで行っていたとするならば、 天上界からの援助も、また、奇跡もなかったということなのです。

【Gさん】 これで分かりました。 大川総裁が、「当会の実力はこんなものではない。実は、この100倍の力がある」と、おっしゃっていた意味が分かりました。

【お助けマン】 そうです。 私たちは、まだまだ天上界の力を充分に頂けてはいないということだと思っています。

【Gさん】 そして、そのカギを握っているのが「信仰心」であると言うことですね。

【お助けマン】 はい、そのとおりです。 ですから、もう一度、精進と感謝、それも、主に対する感謝の気持ちをさらに10倍、100倍にしていく必要があるのではないでしょうか。 そして、その感謝は愛へとつながっていますので、主への感謝は、 そのまま、「主を愛する」と言う行為に変わっていかなければならないと思うのです。そして、その「主を愛する」という行為は、「主を信じる」という念いから出てくるものでもあるのです。

【Gさん】 分かりました。 これからも色々な救世活動が展開されていきますが、それも、全て「信仰心があってのこと」ということが分かりました。 そして、信仰心に基づくその救世運動は、奇跡のごとく100倍の力で全世界に広がっていかなければ本当ではないということですね。
今日もいいお話しを、本当にありがとうございました。 私も、さらに信仰心を強くして「使命を果たす」ことに全力を尽くしたいと強く思いました。 それでは、これにて失礼いたします。

と、言ってGさんは帰られました。
いくら口で信仰心があると言っても、毎日の反省を行う精進の姿勢や、 主が身を削って霊言や法を出されていることに対しての感謝の心がなければ、その信仰心はニセモノと言っていいでしょう。
やはり、真理のもとではウソは通用しません。なぜなら、仏神は、全ての全てをご存知であるからです。

では、次回も問答が続きます。
主エル・カンターレに感謝。

(おわり)