”詰め将棋”のように書籍が出版されるとは?

先回に引き続き、古い幸福の科学の会員さんのGさんが来られました。Gさんは、 仏教の教えに対しても興味を持って勉強されている方でもあります。
以下は、Gさんとの会話の内容です。

【Gさん】  先回は、仏陀の教えを狭くしないためにも、教えを立体的に理解することが大事であると、 教えていただきありがとうございました。 本日、来させていただいたのは、 昨年の10月に発刊されました大川総裁の書籍の 『大川総裁の読書力』 を読ませて頂き、 その110ページに、大川総裁が”詰め将棋”のように本を出されているとあったのですが、 今ひとつ、その意味が分らないのでやって参りました。
おそらく、先回お話し頂いた立体的に理解することと関係があるのではないかと思っているのですが、 それでいいのでしょうか?

【お助けマン】 では、答えさせて頂くまえに、 その”詰め将棋”が述べられているところを読んで頂けますか?

【Gさん】 はい、分りました。今、ちょうどその書籍を持っていますので、 読ませていただきます。

大川隆法: これはほんの二、三ヵ月ぐらい前だったかな。 私が少し自戒の念で、「本を出しすぎかなあ」「あまり本をいっぱい出して、 ちょっと申し訳ないかな。もう少し遠慮して絞らないと、読者が気の毒かなあ」 ということを、ポロッと言ったことがあるんですけれど、 「いや、そうは思いません」と言う秘書がいたんです。 「先生の本は、バラバラにいろいろなものが出ているように見えて、実は詰め将棋みたいです」と。

綾織(質問者): うーん。

大川隆法:「『何でこんなところにいったんだろう』と思っていると、 だんだんだんだん周りが全部詰まっていって、いつの間にか、 王将が詰められてしまうようなところがあるので、私には詰め将棋に見えます」と言うのです。 ですから、タイトルだけを見れば、関係のないものがバラバラに、 いっぱい出ているように見えるのですが、気がついてみたら詰められていて、 王将はもう逃げる場所がなくなっているところまでいっているのです。

と、あるのですが、ここのところが、よく分らなくて・・・。

【お助けマン】 いや、私にはよく分るような気がします。 実は、私には、”詰め将棋”ではなかったのですが、 ”ジグソーパズル”に見えたことがあったからです。

【Gさん】 えーっ、余計に分らなくなってしまったじゃないですか。 詰め将棋とかジグソーパズルとか・・・。

【お助けマン】 ごめん、ごめん、でも、両者とも同じことを言っているのではないかと思いますよ。 詰め将棋は、将棋盤の適切な位置に駒を配置して、相手の王将を囲んで詰めていきますし、 ジグソーパズルは、細切れのパーツをその型にぴったりと合った位置にはめ込んでいきますが、 両者とも非常に立体的なのです。
つまり、将棋の駒やジグソーパズルのパーツを書籍と考えますと、 その書籍は、必要なところに、しかも、適切な位置に配置されているということなのです。

【Gさん】 あー、なるほどね。その駒やパーツは、 一見、でたらめに置かれているように見えたとしても、その位置に置かれるということは、 非常に適切であり、かつ、必然でもあるということですかね。

【お助けマン】 そのとおりです。さすがGさん、ご理解が早いじゃないですか!
私がびっくりするのは、それぞれの説法や書籍の出版は、 何か、偶然になされたように見えるのですが、その実、偶然ではなく必然であったということなのです。
さらに言わせていただくならば、 大川総裁は、そのジグソーパズルの全体像を、 もう当初からご存知であったのではないかとさえ、私には思えるのです。 すなわち、「太陽の法」、「黄金の法」、「永遠の法」にて、 真理の全体の骨格を示されて、その、骨格間の空いたところを順番に説法と書籍で、 緻密に埋められてきたのではないかと思っています。 また、宇宙人リーディングについても、偶然ではなく、惑星における人類の魂の真実が明かされて、 宇宙の真理が埋められているのだと思います。

【Gさん】 段々と分ってきました。 つまり、大川総裁は、初めに全体的な骨格を示し、 そのあとにその間の肉付けをされるように法を説かれているということでしょうか。

【お助けマン】 そうなんですよ。
実は、この説き方は、世の中の一般的な研究者とはまったく異なるアプローチだと私は思っています。 例えば、研究者の場合を考えてみますと、 研究者は、自分の研究の最終的な全体像を初めから見えているわけではありません。 研究を年々重ねることによって、段々とその枠を広げていく、あるいは、もし当初の仮説が間違っていたなら修正をし、 軌道修正をしながら自分の研究成果を作りあげていきます。 しかし、大川総裁は、方便による修正以外は、まったく、当初から変わっていないのです。 これは驚くべきことです。

【Gさん】 いやー、それは、もう人間わざでは無理ですよ。

【お助けマン】 はい、そのとおりです。 ですから、このことのが、また「仏陀の証明」であり、「神の証明」だと私は思っています。 つまり、大川総裁は、初めから全体の真理の体系を全てご存知なんだということです。

【Gさん】 なるほどね。だから、真理とはその全体の体系のことを言うのですね。

【お助けマン】 そのとおりだと思います。 たとえば、 『幸福の科学の基本教義とは何か』 の17ページでこのように述べられています。

皮肉ですが、「一冊だけを読んで”終わり”にしようとする輩(やから)は許さない」(笑) と考えているので、それほど簡単に”解放”する気はありません。
「今の時点で、私は、何をもって基本教義と考えるか」ということについて、 「ベースになる本を要約して、そのポイントを述べる」というかたちなら、 いろいろと答え方はあるでしょうし、「数多くある著書のなかから、どれか一冊を選ぶ」 というかたちで答えるやり方もあろうと思いますが、 著者の立場としては、それを言うことはできません。 「これだけを読めば結構です」と私が言ったならば、ほかの本は読まれなくなるので、 口が裂けても言うことはできないのです。(略)
そういう意味で、「教義のまとめ」は実に難しいものであろうと思いますし、 長く勉強したからといって、あるいは私の近くにいたからといって、 それが分るものではないところがあります。 その人の器(うつわ)や認識力に合わせて感じ取るものがあるのではないかと思うのです。

と、ここでもう答えを頂いたようなものなのです。 膨大な真理をいかに体系的に理解できるかは、その人の器(うつわ)や認識力によるとも説かれています。

【Gさん】 本当ですね。ちゃんと述べられているのですね。

【お助けマン】 たとえば、象をどのように表現するかを考えてみましょう。 象は、長いホースのような鼻を持っています。 大きな”うちわ”のような耳を持っています。さらに4本のドラム缶のような足を持っています。 でも、長いホースだけで象と言えるのか、うちわのような耳だけで象と言えるのか、 4本のドラム缶だけで象と言えるのか、それは言えないでしょう。
ですから、象を表すのに1つだけ選んでくださいと言っても無理だということです。 それと同じで、真理も全体で真理であって、 一つだけを取り出して真理として下さいと言うほうがおかしいということになります。
実は、鼻だけでいい、耳だけでいい、足だけでいいという考え方が、 先回言いました過去の仏教における”禅だけでいい”、”念仏だけでいい”、”法華経だけでいい”とする考え方なのです。

【Gさん】 いや、よく分かりました。
『四弘誓願』(しぐせいがん)の三つ目に『法門無量誓願学』という文言がありますが、 本当に分る気がします。法門には限りはないけれども、全てを学びつくしますという誓いですよね。

【お助けマン】 そうです。 だから真理は、これからもどんどん出されていきますが、 これに感謝し、学び尽くすことが大事だということです。
でも、真理が限りなくあればいつまでも学べことができるので、むしろ、楽しいじゃないですか。

【Gさん】 いや、よく分りました。 大川総裁の書籍が、次から次へと出版されるので、 読むのが苦しいと思ったときがありましたが、 むしろ、ジグソーパズルのパーツの一つひとつを与えて頂いていると考えれば、 これはありがたい限りです。 それを聞いて、感謝の念いと、学ぶ気力がまた湧いてきました。
今日はいいことを教えて頂き、本当にありがとうございました。 では、これにて失礼いたします。

と、言ってGさんは帰られました。
現代は、神の言葉を直接聞ける奇跡の時代であると言われています。 しかしながら、もし、そのことが当たり前になったり、それに対する感謝の思いが薄れてきたとするならば、 それはもう”ネコに小判”状態となっていると言えるのではないでしょうか。
1億5千万年ぶりのことが起きているという意味を再度認識し、 魂の喜びとすることこそが大事だと思います。 なぜなら、あの世に還ったら、もっと学んでおけばよかったと思うのは必至ですから・・・。
では、次回も問答が続きます。
主エル・カンターレに感謝。

(終わり)