なぜ、仏陀の教えを狭くしてしまうのか

古い幸福の科学の会員さんのGさんが来られました。Gさんは、先回、 新人類とクオンタム・リープ(量子的飛躍)との関係について聞きに来られ方です。
以下は、Gさんとの会話の内容です。

【Gさん】 先回は、仏陀とヘルメスを融合した姿が、 新人類の姿だということを教えていただきありがとうございました。
ところで、今日、来させていただいたのは、仏陀が説かれた法門に八万四千あると言われていますが、 それにもかかわらず、 なぜ、後世の中興の弟子の人たちは、そのうちの1つだけ取り出して、 これこそが正しいと言うのでしょうか? その理由を聞きに参りました。

【お助けマン】 例えば、どういうことでしょうか。 もう少し具体的に言ってもらえますか?

【Gさん】 はい、例えば、ただ座りさえすればいいという「禅」の教えがありますし、 また、他方では「南無阿弥陀仏」と、ただ念仏だけをあげれば救われるという教えもあります。 さらに、「法華経」こそが正しい教えであるとして、その他の教えを排撃さえする宗派もあるのです。 同じ仏教なのに、なぜ、こんなことになってしまったのかと不思議でならないのです。

【お助けマン】 なるほどね。そのとおりですね。
せっかく、仏陀が八万四千の法門を説かれたとしても、 後世の弟子たちがそれを狭くしてしまったら、仏教の教えが台無しになりますものね。 分かりました。
実は、会内経典の『悟りの挑戦(上巻)-講義』がありますが、 その「はじめに」のところに、 仏教理論の理解の難しさについてこのように述べられています。

仏教に関する知識というものは、そうとう膨大なものがありますので、 それをいっぺんには説明できないがために、理解できないだけなのです。

とあって、要するに、仏教の教えには膨大な量があるが故に、 全体を理解することが難しいということが述べられています。 例えば、これが、キリスト教のように聖書1冊だったら、これほど教えの理解に苦労はなかったと思います。
さらに、「幸福の科学」の教えには、仏教をはるかに超える法門の広さがありますので、 その全体を理解することは、仏教を超えて、さらに難しいのではないかと思っています。 そこのところを、大川総裁は、 『宗教学から観た「幸福の科学」学入門』の22ページで、 次のように述べておられます。

私の考えから行くと、やはり、幸福の科学には、他の宗教と極端に違う部分があると思います。
それは、先ほどから述べていることと同じになりますが、 「幸福の科学は、教義の外縁というか、”外回り”がどんどん広がっていくスタイルの宗教であり、 それに伴って、活動もまた広がっていくかたちの宗教である」 ということです。
すなわち、「シンプル(単純)な教えを力強くグイグイと押し広げていくタイプの宗教ではない」 ということが挙げられます。
このことは、翻(ひるがえ)って考えてみると、教えがどんどん増えていくなかにおいて、 その信者たち、あるいは、僧職にある者たちに、おびただしい時間の学習努力を要請 することにもつながっています。

と、おびただしい時間の学習努力を必要とすることが、すでに述べられています。

【Gさん】 あー、やはり、幸福の科学の教えは、仏教以上に教えが広いので、 その全体を理解することは、さらに努力を要するということですね。

【お助けマン】 はい、そのとおりです。 ですから、過去の仏教の中興の弟子の人たちが、 仏陀の教えのある部分だけを取り出して、 これこそが正しい教えであると言ったようなことが、 これからの幸福の科学に起きないとは限らないということなのです。

【Gさん】 そう言えば、先回、お助けマンさんは、 仏陀とヘルメスを融合した姿が、これからの新人類の姿だとおっしゃっていましたが、 融合するどころか、幸福の科学の基本の教えである愛・知・反省・発展の四正道を、 ばらばらに実践する人も出てくるかも知れないということですね。

【お助けマン】 はい、私は、それを心配しています。 いや、もうすでにその傾向が現れているのではないかとも思っています。 1つのことしか出来ないということは、その傾向が出ているということだと思います。
例えば、真理の勉強と言えば勉強ばかりになったり、選挙だと言えば選挙だけになるとか、 あるいは、布施のお勧めだけになったり・・・。 同時にできないので、どれか1つに偏った行動になることが心配されます。

【Gさん】 では、そうならないためにはどうのようにすればいいのでしょうか?

【お助けマン】 いや、それは難しい質問ですね。 もし、それを分かっていたならば、かつての仏教の歴史で、 禅定だけ、念仏だけ、法華経だけでいいとはならなかったわけですから・・・。

【Gさん】 でも、何とかして、今世でこの状況から卒業したいですね。

【お助けマン】 分かりました。私が個人的に理解したところで良ければお話しをさせていただきます。
まず、参考となる会内経典の『信仰と愛-講義』 の18ページから、ご紹介させていただきます。

当会では、この愛・知・反省・発展を上手に組み合わせていますが、宗教的に見れば、 そう簡単に結びつくものではないと思います。愛の教えは、愛の教えで一本化する傾向があります。 知のほうは知のほうで、学びを中心にする方が多いです。 また、反省中心でいく方もいます。発展は発展で、そういう自己実現的な方向で真理を追究される方が多いのです。 愛・知・反省・発展は、この世的にはバラバラに行われていると思いますが、 これを融合させることによって、宗教のいちばんいいところがすべて出てくると考えています。

とあり、愛・知・反省・発展の四正道は、バラバラに実践されるのではなく、 融合させて実践することが大事であると説いておられます。 では、どうやって融合させるのか、実は、そのヒントについても明かして下さっています。
これもまた会内経典ですが、『悟りの極地とは何か-講義』の84ページのところで、 「愛」と「無我」の間に理論的な橋渡しが必要ということで説いておられます。

「無我」そのものは、もともと、六次元上段階の阿羅漢に到るための思想であったのですが、 その無我の思想が七次元の「愛」に転化していく過程で、「空」という思想が出てくるのです。 「真空妙有(しんくうみょうう)」ということも関係しますけれども、 愛の思想が出てくることにもなります。(中略)
ですから、「無我」から「愛」を引っ張ってくるには、そこに何か理論的な橋渡しが必要になってきます。 これを言っておきたいと思います。

とあります。
すなわち、愛・知・反省・発展をはじめ、それぞれの真理の徳目には、 必ず、論理的な「つながり」があるということなのです。例えば、「感謝」について学びますと、 「 感謝とは謙虚さから生まれた行為だ『仏陀再誕』76ページ)」とあって、 「謙虚さ」と「感謝」の関係が分かりますし、 また、「 与える愛は感謝するところからはじまる『太陽の法』180ページ)」とも説かれて、それらの徳目の論理的な「つながり」を知ることができるのです。

【Gさん】 今ひとつ、そのつながりや関係を知ることの必要性が分らないのですが、 なぜ、それらを知ることが大事なのですか?

【お助けマン】 つまり、それを知ることによって、 真理を「立体的」に理解することができるからです。

【Gさん】 えっ、立体的? 立体的とはどういうことですか?

【お助けマン】 例えば、「知」と「反省」と、「感謝」と「愛」の関係を考えてみたいと思います。 まず、真理を知る(「知」を習得する)ことによって、 善悪のモノサシが得られるので「反省」ができる。 そして、「反省」をすることによって、いかに他から与えられているかが分かるので、 「感謝」が生まれる。さらに、「感謝」の思いは必ず「報恩」という行為につながるため、 そこから「愛」が生まれるというように、前のものが土台となって、 その上に、それから生み出された徳目が生まれるというように、それらが、 あたかも分子式の構造のように「立体的」に組み立てられるのです。

【Gさん】 なるほどね。確かにそれらの徳目は、目には見えないものですが、 立体的に互いに関連し合っているということですね。

【お助けマン】 そのとおりです。 そして、それが、そのまま互いの「縁起」でもあるわけです。 もし、これらの関係が立体的に理解できたならば、 その中の一つだけを取り出して、これだけが正しいという考えにはならないはずです。 なぜなら、個々の徳目は互いにつながっており、かつ、 表現は適切ではないかも知れませんが、一体となったセットとして存在するからです。

【Gさん】 確かにそうですね。修行を実践して自分創りを成し、 その程度に従って、他人に愛を与えて、他人を救っていくとなれば、 修行と愛の実践の両方が必要ですからね。

【お助けマン】 そうなのです。 ですから、それらを立体的に理解できない人が、ただ、修行だけが大事だと言ったり、 あるいは、愛の実践だけが大事だと言ったりするのです。

【Gさん】 なるほど、立体的ということが、よーく分かりました。

【お助けマン】 ただね、立体的に知ることが大事だと言っても、 ただ知っているだけに終わるならば、それは本当に知ったことにはなりません。 そもそも真理とは、単なる知識だけに止まらず、必ず、それ自体が行動の原理へと転化する性質を持っています。 したがって、本当に真理を理解したならば、それは必ず行動に現れるはずです。 これを仏教では、古くから「知行合一」と言うのです。

【Gさん】 いや、今日は、本当によく分かりました。
幸福の科学の教えには、仏教に増して膨大な教えがありますので、 仏教の学びで音(ね)を上げたならば、幸福の科学の学びでは、もう脱落しかありませんね。 私は、もう腹をくくって教学を日々行い、そして、それらの関連を深く考えて、 立体的な智慧にして、具体的に行動していきたいと思います。
今日は、正月早々にいいお話しをありがとうございました。 では、これにて失礼いたします。

と、言ってGさんは帰られました。
実は、私も現時点で説かれたことだけをすればいいと思っていたところがありました。 でも、以前に説かれたことは、もちろん方便で説かれたことの修正を除けば、 白紙になったわけではありません。 従って、過去に説かれたことも合わせて、総合的に、かつ、 立体的に理解することこそが、仏弟子に、今、求められていることではないでしょうか。
そのことが理解できたなら、1つのことしかできないとか、 あるいは、これだけが正しいというような短絡的な頭脳にはならないように思います。 過去の私たちの先輩方が苦労されたことを繰り返さないためにも、 さらに智慧を磨くことが、今後、益々重要になってくるのではないでしょうか。

では、次回も問答が続きます。
主エル・カンターレに感謝。

(終わり)