なぜ、政治に宗教が関わることが嫌われるのか

先回、政治と信仰心との関係について聞きに来られた元ジャーナリストのAさんが、 今度は、なぜ、政治に宗教が関わることが嫌われるのか、その理由を聞きに来られたのです。

以下は、Aさんとの会話の内容です。

【Aさん】 先回は、色々と聞かせてもらってありがとう。 それで、僕も元ジャーナリストだから言うんじゃないけど、 政治家が信仰心を持つのはいいとは思うんだけど、宗教が政治に進出することは良くないんじゃないの?

【お助けマン】 やはり、Aさんもまだそのように思われるのですか。

【Aさん】 そうだよ。信仰心まではいいとしても、憲法の第20条には、 宗教団体の特権付与の禁止と、国およびその機関は宗教活動をしてはならないとあるよね。 だから僕は、やはり宗教は政治活動に進出すべきでないと思うけどね。

【お助けマン】 そこなんですね。皆さん、その「政教分離」という言葉は憲法にないにしても、 これに、かなりこだわっておられるようですが・・・。

【Aさん】 しかしだね、僕は、「政教分離」以前に、 そもそも宗教と政治は関係のないものだと思うけど、あんたどう思う?

【お助けマン】 おっしゃるように、もし、宗教が観光仏教のように観光業を行うものであったり、あるいは、 冠婚葬祭だけを行うものであると限定するならば、確かに政治とは関係がないと解釈されるでしょう。
しかしながら、両者は、ともに国民に幸福をもたらすことを目的としているはずです。 ですから、その意味では目的達成のための手段は異なっていたとしても、ある意味で両者は同じ性格のものであると言えるのではないでしょうか。
そこのところを、大川総裁は、書籍 『宗教立国の精神』にて述べられていますので、ご紹介させていただきます。24ページのところです。

日本では、戦後、「政治と宗教を分ける」という政教分離が当然の常識として刷り込まれているために、 スタート点においてはかなり難しいものがあります。 率直に言って、「すでに多くの人に教育され、刷り込まれているものを覆し、 さらに、その先に進む」ということは、困難なことのように見えます。
しかしながら、「政治とは何か」ということを翻(ひるがえ)って考えるならば、 それは、ある意味で、「この地上から不幸を追放する」という具体的な活動であり、 別の言葉で述べるならば、幸福の「科学」そのものであると言えます。

と、述べられていて、政治は、「幸福の科学」だとも言われているのです。

【Aさん】 えっ! 政治とは、幸福の科学か・・・。

【お助けマン】 そうです。ただ両者は完全一致するものではありません。 この世における目的は同じですが、宗教のほうがもっと守備範囲は広いのです。
大川総裁は、さらにそのあとの文章でこのように述べられています。

私は、宗教も政治の一角を担うものであると同時に、政治をも包み込むものであると考えています。 すなわち、幸福の科学が考える「人間の幸福」というのは、 「この世とあの世を貫く幸福」であり、そのうちの「この世の幸福」の部分において、 政治と宗教が並行的に存在するのです。
宗教が政治的にも成功し、幸福な人を数多くつくることは、当然、 この世から不幸を減らしていく運動にもなり、それは、政治と宗教が、物心両面から、 この世をユートピア化していく流れでもあると思うのです。

とあり、政治は、この世だけの幸福を求めるものであることに対し、 宗教とは、この世とあの世の両方の幸福を追求するものと言われているのです。

【Aさん】 なるほどね。これは、分かりやすい解説だね・・・。 これだったら誰でも分かるよね。だけど、なぜ、宗教に対してこれほどまでに偏見があるのかね。

【お助けマン】 うーん、伝統的宗教は別として、新興宗教と言われる宗教には、 間違ったものが多かったということがあるのではないでしょうか。 オウム教などは、その典型でしょうね。

【Aさん】 だから、宗教イコール悪となってしまうのか。

【お助けマン】 そうです。実は、それこそが洗脳なのです。 つまり、宗教は悪だと、皆、洗脳されているのです。
もし、古い伝統宗教は悪くないが、新興宗教は悪だと言うなら、だったら2500年前では仏教は新興宗教だったし、 2000年前のキリスト教も新興宗教だったはずです。 要は、その宗教の生れた時期ではなく、その内容が正しいか否かで判断しないといけないということなのです。
例えば、人間にもいい人も居れば、振り込め詐欺をするような悪人も居ます。 ですから、人間だったら悪というのではなく、その人の善悪を偏見ではなく智慧で見抜くことが大事だということです。 残念なことに、いまだにオウム教と幸福の科学の区別もつかない人たちもいるということなのです。

【Aさん】 それについては、僕も同感だ。 でも、なぜ、ここまで宗教は悪と皆が思うようになってしまったのかね。

【お助けマン】 先ほど言いましたように、近々では新興宗教に悪いものが多かったということもありますが、 長くは、人類の歴史において宗教が嫌われた時代があったということも原因だと思います。

【Aさん】 と、言うと?

【お助けマン】 はい、中世においては、魔女裁判で無実の女性を火あぶりにしたり、あるいは、 教会による科学を否定するような弾圧がありました。それに対して、啓蒙思想家たちが立ち上がって改革運動を起こして、 人々を解放していったのです。
そのところを、大川総裁は、会内経典である『釈迦の本心―政治編』にて述べられています。少し長くなりますが、ご紹介させていただきます。82ページのところです。

中世において人々は宗教に縛られていました。教会や僧院、法王の判断や、古いしきたりなどで、 いろいろと仕切られ、自由に動けないでいました。
近代的市民が出来上がらずにいた中世の時代に、それを打ち破るために啓蒙思想家が出て、 近代人のあり方を開いたのです。
彼らは、近代人における「自由と平等」の概念を説いて、古い中世的な宗教から人々を解き放ちました。
それが悪であったかというと、そうではありません。一部には悪の部分があったかもしれませんが、 当時は宗教自体がもう古びていたのです。
宗教には、千年、二千年の歳月を経て古び、耐用年数を過ぎてくる時期があります。 そうすると、時代に合わなくなります。
しかし、その宗教を信じ、それに縛りつけられていなくてはいけない状態が長く続いていると、 社会が停滞してきます。それで、宗教改革が起き、宗教のなかから宗教を変えようとする運動が起きるのです。
ところが、近代においては、「それでは十分でない」ということになり、啓蒙思想家が出て、 思想のレベルで社会思想的に世の中を変えていこうとし、一種の「宗教からの離脱」を図ったわけです。
それはそれで評価すべきかもしれません。「啓蒙思想が近代科学と相まって、 人類社会の一定の発展をもたらした」と思えるので、それが啓蒙思想の評価されている点ではあると思います。
しかしながら、その啓蒙思想の堕落した部分が、いわゆる左翼思想として出てきます。 啓蒙思想のなかの精神的なるものが抜け落ち、形だけに縛られていて、こちらでもまた堕落が起きているのです。
迷信や古い考え方、古いしきたりにとらわれた生き方を打ち破り、人間として、 この世における人生を十分に生き切るがために、啓蒙思想が出てきたのですが、それもまた形骸化して形だけになり、 非常に低いレベルの人に足並みが合ってくると、 「怠け者の自由」のみを容認するような思想へと堕落してしまいました。 これが実は左翼思想の現状だと私は思います。
現在の状況は、「左翼が強すぎる」と言うよりも、「宗教が力を持っていない。宗教が使命を果たし切れていない」 と言うべきです。
今、そういう流れで来ており、啓蒙思想が堕落して左翼思想になっているので、 これを打ち破るには、啓蒙思想を含みながらも、それを超えた、宗教の革新運動が起きなければなりません。
私は、宗教に関する話もしていますが、同時に、政治や経済、教育などついても語っており、 この世の仕組みや枠組みそのものについて提言をしています。 これは、社会思想、社会科学に相当する部分です。
このように、当会の教えには、新しい啓蒙思想の面があるとともに、 啓蒙思想をも超え、「中世で堕落した宗教に対して、もう一度、宗教改革をし、神の心にまで戻さなければならない」 という、神聖な運動も加わっています。
今、この「宗教の復興運動」と同時に、「堕落した啓蒙思想のイノベーション」も起きているわけです。
つまり、当会の活動は、「宗教の革新運動」と「啓蒙運動の再構築」という両面を持っているので、 「当会は政治でも一定の機能を果たすことができる」と言えるのです。
世間の人たちは、よく、「宗教には政治ができない」と言いますが、それは、 「中世もしくは古代の宗教には政治ができない」という思想です。

と、簡潔明瞭に説かれていますのでご紹介させていただきました。

【Aさん】 いやー、明確だねー。これを読めば、幸福の科学が、今、何をしようとしているか、本当によく分るね。

【お助けマン】 そうです。宗教改革と啓蒙思想の改革である政治改革を、同時に行っているということです。

【Aさん】 一つだけでもかなり難しいのに、二つもやるなんて・・・。

【お助けマン】 いいえ、二つだけではありません。教育、経済、さらに、科学技術や芸術もあるのです。

【Aさん】 えーっ、これは仏陀だ! いや、仏陀以上だね。

【お助けマン】 そうです。だから、主エル・カンターレなのです。

【Aさん】 よく分ったよ。その改革の一つだけを理解するのも難しいのに、 同時並行的に進んでいるいくつもの改革を理解することは、もう無理なんだ。 だから、世の中の知識人や、もちろんマスコミにも内容が分からないんだ。 これはもう過去の宗教の守備範囲を超えているので、超宗教と言うか、あるいは、アドバンスド宗教というか、 表現に困るよね。
ただ言えることは、「信仰の世界」と「科学」との統合であるので、「幸福の科学」と言う表現がぴったりということだ。 これは、もう再誕の仏陀に帰依して「その教えを学ばなきゃ損々」ということだよー!
今日もいいことを教えてくれてありがとう。じゃ、今日はこれで失礼するよ。

と、言ってAさんは帰られました。
なぜ、幸福の科学の全体を理解することが難しいのか。 それは、アリが象を見てその全体像を理解しようとしていることに似ているでしょう。
だから理解できない人たちが、部分だけでもって誤解し、 分らないことを自分の責任と思わず、逆に幸福の科学を批判するような醜態を見せているのかも知れません。
そのときは、Aさんが言ったように、もうシャッポを脱いで全面降伏して帰依するしかないということではないでしょうか。 だって、主エル・カンターレを完全に理解することは不可能なのですから・・・。

では、次回も問答が続きます。  主エル・カンターレに感謝。

(終わり)