信仰とは何か(その10)「信仰は人生の成功と同義なり」
先回は選挙があって、信仰についての問答がお休みとなりました。 そこで今回は、信仰の問答の最終回として「信仰」と「人生の成功」との関係について学びます。
以下は、Eさんとの会話の内容です。
【Eさん】 先回は、「和合僧破壊の罪」について教えていただきありがとうございました。 お陰さまで和合僧破壊の罪がいかに重いものであるかがよく分かりました。 そこで、今回が「信仰とは何か」の問答シリーズの最終回とのことですが、 このシリーズの最後に、お助けマンさんが是非とも言っておきたいということがあれば、それをお聞きしようと思ってやって参りました。
【お助けマン】 はい、分かりました。私が是非とも話したいことですね・・・。
それはね、何をもって自分の人生の成功とするかということです。 ところで逆に聞きますが、Eさんなら何をもって人生の成功とされますか?
【Eさん】 私ですか? うーん、私ならやはり目に見える形での成果があることをもって成功と思うでしょうね。 例えば、お金持ちで名声もあって、また、多くの子供たちや孫たちに囲まれ、そして、 健康で長生きして最期には病気にもならず枯れるように死ねることが人生の成功だと思いますね。
【お助けマン】 なるほどね。かなり一般的でこの世的な成功論ですね。 ところで、お金や土地などの財産、さらに肉体も死んであの世に持って還れないことはご存知だと思うのですが、 もし、それらの全てが死んだあとに意味を成さないとするならば、何をもって人生の成功とするのですか?
【Eさん】 そうでしたね。お金などの財産は何一つ持って還ることは出来ませんでしたね。 持って還れるのは心しかないということでしたから、心をよくすることが自分の人生の成功ということでしょうか。
【お助けマン】 そのとおりです。持って還れるのは心しかありません。 大川総裁は、その心に対してさらに踏み込んで、「持って還れるのは信仰しかない」と言われています。
【Eさん】 と言うことは、自分の人生の成功とは、生涯において信仰を持つことと同義と言うことですか?
【お助けマン】 さすがEさん! そのとおりです。 人間は、この地上にオギャーと生まれて来て、ゼロからのスタートを切る訳ですが、 さらに心を中心にして人生を考えるならば、自分の人生は信仰を持つためにあると言って過言ではありません。
また、信仰とは永遠の命である魂に関係するものであるが故に、地上人生だけに有効な肉体の命よりも大事なものなのです。 大川総裁は、そこのところを 『仏陀再誕』 の第7章「信仰と仏国土建設への道」の323ページに次ように説かれています。
と言われたならば、
迷わずに信仰を取れ。
信仰を取ったところで、あなたがたは永遠に命を失うことはない。
あなたがたは永遠の栄光のなかにあるだろう。
しかし、地上の命と信仰とのどちらを取るかと言われて、
命のほうを取った者は、
やがて地上を去ってから、激しい後悔にさいなまれることとなる。
あれだけの固い意志で、堅固な意思で、修行を重ねてきたのに、
あんな誘惑でもって、その信仰の道から離れたということが、
地上を去った後、幾百年、幾千年もの間、汚辱となって遺(のこ)るのだ。
そして、魂の後悔は止むことがない。
そのような魂の後悔は、
たとえ地上にありて、鋸(のこぎり)にて身体を引き裂かれようとも、
これほどまで苦しくはないと言わんばかりの苦しさであるのだ。
過去、偉大なる仏陀が地上に降りた時も、
信仰心を失い、そして師への罪を犯した者たちは、
地上を去った後、
どれほどまでの苦しい、苦渋に満ちた魂生活を送ったかということを、
あなたがたは知っているだろうか。
このように、信仰を失うということは、
命を落とすよりも大変なことであるのだ。
命落とすとも、信仰を失ってはならない。
と、荘厳なる法が説かれています。
【Eさん】 いやー、厳しいですね。 本当に信仰は持ったほうがいいというレベルではありませんね。 人生において必須のものだということですね。
【お助けマン】 そうなのです。人間は、本来霊なる存在ですが、 この三次元の世界に、ある間隔で肉体を持って生まれてきます。 その目的は魂修行にある訳ですが、実は、その修行の中核にあるのが信仰を持つということなのです。 従って、信仰が無ければ、たとえ巨万の富を得られても、たとえ位人臣を極めても、全ては水の泡になるということでもあるのです。
【Eさん】 えー! 信仰とはそれほど大事なものだったのですか・・・。
【お助けマン】 そうです。だから、はっきりと申し上げるならば、人生の成功とは 別の言葉で言うならば、「信仰を持って人生を終えた」ということなのです。
【Eさん】 じゃ、今、もし当初は大川総裁を仏陀でありエル・カンターレであると信じていた人が、 信仰を失ってアンチになったとするならば、それこそ、その人の人生は失敗だったということですか?
【お助けマン】 そのとおりです。残念ですがそのとおりなのです。失敗も失敗、大失敗だったということです。 だからこそ、たとえ何があっても信仰、つまり、それも正しい信仰である現代に下生されている仏陀への信仰を手離してはならないと言うことなのです。
長い長い自分の人生には色々なことがあります。いいときもあれば悪いときもあります。また教団においても色々な出来事や数々のイノベーションがあります。 そのときに絶対に信仰を失ってはならないということなのです。
【Eさん】 そう言えば、幸福の科学の過去20数年の歴史の中で、 色々なことがあったと聞いています。例えば、比較的新しいこととして四年前に幸福実現党を立党して政治に進出しましたが、 過去四年間、一人の議員も輩出できていません。 それに対して失望しているという人もいると聞いています。
【お助けマン】 そうです。マスコミが無視するとか、あるいは無神論者などが幸福実現党の悪口も言うでしょう。 しかし、それも試しなのです。その時、心揺らさず、何があっても信仰は手離してはいけないのです。
【Eさん】 段々と分かってきました。 信仰の試しは次から次へとやってくるということですね。でも、これは私たちの信仰心を鍛えてくれているものでもあるのですね。 また、そのときに私たちの耐える力が養われているのですね。よく分かりました。 一時、失望という言葉に負けそうになったこともありましたが、何か、今また、元気が出て参りました。
本日も大事なことを教えていただだきありがとうございました。それではこれで失礼いたします。
と、言ってEさんは帰られました。
人生を何をもって成功とするのか、色々と解釈があるかと思いますが、 真理の立場から言えば、棺のフタの閉まるまで信仰を持ち得た人の人生こそが成功であったということだと思います。 その人が、たとえ貧乏な人生を送ったとしても、また、離婚再婚などの波乱万丈の人生を生きた人であったとしても、 信仰の有無が、その人の人生の成否を決める基準になるということを忘れてはならないということです。 なぜなら、信仰者は天国に還り、無神論者はたとえ総理大臣であっても地獄に堕ちているからです。
また、地上の命よりも信仰のほうが大事と言えば、頭の悪いアンチ諸氏は、すぐに カルトだと早合点するようだが、 よく説法を読んで欲しい。 信仰とは永遠の生命に付随するものであるが故に、わずか80年や90年間の地上の命よりもはるかに長い期間のことを意味する。
したがって、永遠の生命の理論は地上の生命が全てであるという唯物論的な理論をはるかに超え、 価値観においても、永遠の生命のほうが地上の生命より優先されると解釈されるのであって、 だからと言って肉体生命を粗末にしていいと短絡的に解釈することが誤りであることは明らかだ。
以上で10回続いた「信仰とは何か」の問答シリーズは終了となります。
真理問答はまだまだ続きます。
主エル・カンターレに感謝。
(終わり)