信仰とは何か(その8)「信仰において大事な『従順』」

 

先回に引き続き、信仰についてEさんとの問答です。 先回は、現在の信仰の段階がエル・カンターレ信仰の段階にあることを学びました。 そこで今回は、信仰において一番大事な「従順」について学びます。

以下は、Eさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回は、信仰の発展段階について教えていただきありがとうございました。 改めて、現在がエル・カンターレ信仰の段階にあり、「信」は「知」を超えるということがよく分かりました。 そこで、今日は、現在のエル・カンターレ信仰の段階で一番大事なこととは何なのか、それを教えて頂こうと思ってやって参りました。

【お助けマン】 はい、分かりました。これからが本物の信仰論になるでしょうね。
では、さっそくですが、その点について、ずばり説かれているところがありますので、 まずそこのところを紹介させていただきます。 会内経典である『君よ、涙の谷を渡れ』の第2章「愛される人になるためには」の71ページのところです。

信仰において、まず大事なことは何でしょうか。それは、「従順」ということです。 従順とは、「自我を振り回さない」ということです。
幸福の科学の会員であっても、自我を振り回して、「ああだ、こうだ」と細かいことに自分なりの判断をして意見を言ったり、 自分が仏や神になったような気持ちで教えや活動を批判したり、さまざまなことで活動を混乱させるような人がいるかも知れません。 そういう人に対して、あなたがたは、「本来の宗教者の態度ではない」ということを教えていただきたいのです。

と、あります。
つまり、宗教に「従順」がなければ信仰そのものが成り立たないということなのです。 これが基本なのです。

【Eさん】 それは分りますよ。でも、自分の意見も言いたいし、自分の考えもあるし、 「従順」と言われると、カチンと来る人もいるのではないですか?

【お助けマン】 実にそこなのです。カチンと来るか否かは、魂が進んでいるかの判定になるところなのです。 つまり、人は小さいときから学校に行って勉強し、また、社会人になってからも様々なことを勉強しますが、 先回、弁証法について述べたように、過去に勉強したことを一旦否定して白紙にし、 大いなる教えに従順に耳従うような魂の段階があるということなのです。

【Eさん】 それは分りますが、でも、自分が過去勉強したことを否定することはつらいですよ。 やはり、自分なりの意見や主張は通したいですからね。

【お助けマン】 そこが、信仰に基づく宗教と学問の違いでしょうね。 学問とは、その進んでいる先端が見えており、その先は未解明の部分となって何もありません。 しかしながら、宗教とは神の叡智が天下って成立したものであが故に、その先は無限にあります。 つまり、無限にあるからこそ全てを理解することは不可能なのです。 従って、自分が勉強して理解できる範囲については自分の智慧とすることができますが、 その先の自分の理解を超えた部分ついては、ただ従順に信じるしかないということです。 その点についても同書に書かれていますので、ご紹介いたします。

この「従順さ」というものは、実は、キリスト教の修道院などで教えられることではあります。 私は、これまで一度も言ったことがありませんが、キリスト教では、「服従」という言葉を使うということもあります。
「仏や神、あるいは主の教えに対して、従順であること、そして服従すること」という教えは、 近代的自我を備えている人にとっては、非常につらいことでしょう。 しかし、これを受け入れることは大きな大きな修行なのです。
今日まで育ててきた自我、すなわち、「学校教育を受けることによってきてきた判断力」や、 「新聞や週刊誌、テレビ等から入ってきた、いろいろな情報によってつくられた判断力」でもって宗教を見ると、 どの宗教もおかしく見えるでしょうが、その見方は間違いなのです。
教えというものは、この世をはるかに超えた世界からの導きであり、「この世のものを持ってきて、 批判したり、比べたりする」という次元を超えた世界のものなのです。
服従ということを述べましたが、要するに、「最後は、信じる以外に道はないのだ」ということです。 高次元から来る偉大で高遠な教えは、受け止めて信じる以外に方法はありません。

と、あり、ただ信じるしかないと説かれています。

【Eさん】 大川総裁は私たちの心を本当によくご存知なのですね。 つらいこともお分かりなのですね。今までずっと勉強してきて常識も身に付けて来た私たちが、 従順に、また、服従するということは、単純な頭で考えると耐えられることではないと思います。

【お助けマン】 そのとおりです。だから、「大きな大きな修行なのです」とおしゃっているのです。 魂が次の段階に進化するための産みの苦しみであると言ってもいいと思います。 人間は、よく勉強し、また色々な新聞やマスコミの情報を吸収することによって、 何か自分が進歩し賢くなったと感じます。
従って、自分から見て明らかにおかしい、 あるいは自分が納得いかないことに対しては、明らかにそれを否定するように反応します。 これを「知恵」と言って、ある意味で自分や社会を守るための非常に強いパワーとなっています。 しかしながら、この宇宙にはそのレベルの「知恵」でもって理解をできないことも多くあるということなのです。

【Eさん】 それは分かります。自分が何でも知っていると、そこまで思い上がってはいませんから・・・。 でも、自分が判断しておかしいと思う場合もありますが、その場合はどうなのでしょうか?

【お助けマン】 もちろん、現実の問題の中ではそのように思うこともあります。 しかしながら、宗教においては、その前提が異なるのです。つまり、宗教とは、 高次元から偉大な教えが降りてくるものであって、それを現在の頭で全て理解することは不可能と言っていいのです。

【Eさん】 何か段々と分かってきたように思います。 宗教と通常の社会の考え方と同レベルに扱ってはいけないということなのですね。

【お助けマン】 はい、そのとおりです。宗教においては、高次元から降ろされた偉大で高遠な教えは ただただ従順に受け入れて信じるしかないということです。

【Eさん】 でも、それ言うと盲信だ、洗脳だという人も出て来ないでしょうか?

【お助けマン】 そこなのです。 そこが、宗教のあり方とこの世の常識との違いなのです。 それを理解できない人が、盲信だ、洗脳だと早とちりして言っているだけなのです。 ですから、残念ですがその人たちは、魂のイノベーションがまだ出来ていないのです。 どうしても以前の頭を捨てきれず、それを大事にして次なる「大きな大きな修行」の段階に入れないでいる人たちです。 確かに今までの生きて来る過程で、そのような学問や知識は非常に役に立ったことと思います。 しかしながら、次なる修行の段階では、それらを土台にしつつも、それらを捨てて従順に教えを100%受け入れることが大事なのです。 これは、未開の人間が何もかも受け入れるという姿勢と同じではありません。 それだけの知性や教育、そして、人生経験を持った人が、神に向かう「次なる修行の段階」なのです

【Eさん】 はい、何だか聞いていて心がワクワクしてきました。 私たちは、数億年をかけて修行をしてきました。 知性も磨いてきました。道徳心も勉強しました。そして今、それらを土台にしつつも、 それらに捉われない「純粋な信仰」という新たな修行の段階に入ってきたということですね。 これはすごいことではないですか。まさしく、 手の舞い足の踏む所を知らずの心境です。
信仰において大事なことを教えていただきありがとうございました。 これからも主の教えに従順に生きていきたいと思います。 本日もありがとうございました。それではこれで失礼いたします。

と、言ってEさんは喜びのうちに帰られました。
ただ残念に思うことは、今まで人生で得た知識だけで幸福の科学を判断し、そして、信仰から離れて行った人もいるということです。 その人たちが、もし、「従順」を魂の次なる修行の段階であることを理解していたならば、離れもしなかったのではないかと悔やまれるばかりです。

次も信仰についての問答が続きます。
主エル・カンターレに感謝。

(終わり)