信仰とは何か(その7)「エル・カンターレ信仰の段階」
先回に引き続き、信仰についてEさんとの問答です。 先回は、信仰には必ず試しがあることを学びました。 そこで今回は、信仰に発展段階があるのか、もしあるならば、現在はどの段階にあるのか、これを学びます。
以下は、Eさんとの会話の内容です。
【Eさん】 先回は、信仰には必ず試しが伴うことを教えていただきありがとうございました。 そこで、私は、改めて今後何があっても絶対に信仰を手離さないと強く誓いました。 実は、今日やって来たのは、信仰に発展段階があるのか、もし、あるならば現在の段階はどの段階にあるのか、それを教えて頂こうと思って参りました。
【お助けマン】 はい、分かりました。確かに信仰には発展段階があります。
その発展段階とは、以前の問答に述べましたので、詳しくは、そちらを参照していただくとして、 ここではその考え方を述べたいと思います。
そこで、復習ですが、信仰の発展段階には5段階があります。つまり、
◆「第一段階――霊知識の普及」
◆「第二段階――多様な支援霊信仰」
◆「第三段階――神信仰」
◆「第四段階――三宝帰依」
◆「第五段階――エル・カンターレ信仰」
という段階です。
では、現在はどの段階かと言えば、すでに第五段階の「エル・カンターレ信仰」の段階に入っています。
【Eさん】 えー、もう第五段階にまで来ているのですね。 ところで、その信仰の発展段階は五段階まであるようですが、一言で言えば、どのような内容なのでしょうか?
【お助けマン】 一言ですか。一言で説明することは非常に難しいことなのですが、 あえて復習も込めて言わせていただくと、まず、第一段階ですが、これは霊言集などを多く出すことによって、 霊界があることを信じる段階です。現在まで多くの霊言集が出されて「霊性革命」がなされていますが、 今度は人類の残りの全ての人たちにも霊界があることを信じてもらう段階です。
そして、第二段階ですが、神とも思える偉人の霊言を出すことによって、その霊人を信じる段階です。 イエス様や孔子様などを好きな人は、その霊人を信じればいいという段階です。 だから、多様な支援霊に対する信仰の段階です。
そして、第三段階ですが、第二段階のままでは各人の好きな霊人を信じるだけでまとまりがありませんので、 一時、十次元の霊である聖アントニウスという名前を方便的に使って神への信仰でまとめようとされた段階がありました。 ところが、困ったことにこの段階で止まっている人もいるようで、今だに聖アントニウスの名前を出して、 なぜ変わったのかと言っている人もいるようです。
そして次に、第四段階の「三宝帰依」の信仰形態がやってきました。これは、方便の時代は終わったということで、 大川総裁の直近の過去世である仏陀に対する帰依の信仰のスタイルの再来であったわけです。 この段階で、やっと2500年前の仏陀教団の段階にまで達したということなのです。 ところが幸福の科学は、仏陀教団の単純な繰り返しの団体ではなく、 仏陀時代をも超えて世界の宗教を統合する使命をも持っていますので、この段階で止まったならば、 むしろ、おかしいのです。
従って、三宝帰依の「仏」の部分が「人間・仏陀」を超えて仏陀の 法身であるエル・カンターレへの信仰が立って、 第五段階の「エル・カンターレ信仰」の段階に入ってきたということなのです。 そして、現在は、その第五段階にあります。
実は、この信仰の発展の過程は全て当初から予定されていたことです。 でも残念なことに、一部、そのイノベーションについて来れない人もいるということです。 これは、会社でも同じでしょう。会社が発展すると、それについて来れずに皆のお荷物になっている人がいることと同じだと思います。
【Eさん】 はい、分かりました。 ところで、「三宝帰依」の段階から「エル・カンターレ信仰」の段階に自分の信仰心を高めるためには、どういう点に注意すればいいのでしょうか?
【お助けマン】 はい、ものごとは、 弁証法的に発展していくものです。つまり、過去に成功したことを否定し、イノベーションによって次なる段階へと上がっていくということです。 しかしながら、ここで言う「否定」とは単なる否定ではありません。あたかも、日光のつづら折れの 「イロハ坂」のように、方向転換はするが、 高みに登っていくという意味での否定であって、同じ道を単純に行ったり来たりすることではありません。
【Eさん】 なるほど。ところで私の質問ですが・・・。
【お助けマン】 あっ、そうでしたね。 「三宝帰依」から「エル・カンターレ信仰」の段階に移るための注意点でしたね。
まず、「三宝帰依」の段階では「知る」ということを非常に重視しました。 「知ることと信ずること」は同じであって、悟りと信仰心は同じとされました。 しかしながら、その先の信仰に進むには、その考え方をむしろ否定しなければなりません。
例えば、 『永遠の仏陀』の「あとがき」につぎのように書かれています。
と、あります。
すなわち、「エル・カンターレ」を完全に理解することは難しいということなのです。 なぜなら、私たちの理解の域をはるかに超えているため、かすかに、感じ取るだけでいいということなのです。
【Eさん】 そうすると、今まで知ることが信仰心であると言っていたことと矛盾しませんか?
【お助けマン】 平面的にはそのように思えるでしょう。しかし、矛盾しないのです。 それが先ほど言った弁証法的な信仰の発展ということです。 今までは、仏の説かれる法を深く理解し、その法に対する確信でもって信仰心としてきました。 しかしながら、それから先の信仰の域については、もう理解でもって信仰とはできない域に入ると言うことだと思います。 ただただ素直に信じるということがこの域での信仰心となります。
【Eさん】 そうですか。じゃあまり深く考えないでいいということですね。
【お助けマン】 そうではないのです!
そのようにコンピュータの1か0かで単純に理解してはいけないのです。 あくまでもその前に勉強した真理の理解とその確信を土台にして、エル・カンターレ信仰は成り立つことを忘れてはいけません。 でなかったならば、 「いわしの頭も信心から」の盲信の世界に入ってしまいます。 ですから、仏陀時代に経験した悟りを土台にして、これから先は根本仏である 法身仏、 つまり、エル・カンターレに対する信仰が完成するということなのです。 従って、これから先は新たな人類の信仰経験の域に入ることでしょう。そういう歴史的な奇跡の場にいるということを忘れてはならないと思います。
【Eさん】 いやー! そうだったのですか!
それにしてもそのようなイノベーションを誤解し、幸福の科学は以前言っていたことと違うと言って去って行った人は残念でならないでしょうね。
【お助けマン】 はい、そのとおりだと思います。お釈迦様の時代でも、「今まで述べてきたことは方便だったよ」と聞いて、幻滅して5千人起去と言って、席を立って帰ってしまったと法華経にあります。そのような仏弟子も、今世こそは、脱落しないで悟りたいと思って転生し、出て来たに違いありません。
だから信仰には試しがあるのです。これから先の信仰は、三宝帰依を土台にしたエル・カンターレ信仰で、過去、未経験の信仰ですが、この信仰心は強力なものになると思われます。 何があっても、あるいは、何が起きようともこの信仰は揺るがないとなるでしょう。 そして、そのような信仰心を持った人たちが、宇宙人と対峙できる新人類となっていくのかも知れません。
【Eさん】 何か段々とエル・カンターレ信仰の意味が、かすかに分かってきたように思います。 エル・カンターレというご存在を全て理解できたから信じるということではないのですね。 私たちの認識力をはるかに超えた存在であるがゆえに、素直に全てを受け入れるという姿勢が大事だというわけですね。
【お助けマン】 そのとおりです。さすがEさん、理解が早くてすごいですね。
ですから、智慧に裏打ちされて、どこまでも純粋に、しかも、ただただ素直に信じるスタイルが、 これからの新時代の信仰のスタイルだと言えるのではないでしょうか。
【Eさん】 はい、分かりました。
私たちの心の修行は、今世だけでなく、仏陀の時代も、ヘルメスの時代も、また、トス様やラムー様の時代から続いているのですね。 もし、1億5千万年ぶりに出られたエル・カンターレへの信仰を逃したならば、それこそ過去の数億年の私たち、いや、私たちの魂の兄弟も含めて、その修行が台無しになってしまうということなのですね。
よく分かりました。 この時代の意味も分かってきたように思います。 これよりエル・カンターレ信仰の道を登り続けたいと思います。 今日もありがとうございました。それではこれで失礼いたします。
と、言ってEさんは帰られました。
それにしても、私たちを段階的に導かれる主エル・カンターレの愛を感じたのは私だけではないと思います。 ところが、おろかにも主を疑って、過去の数億年の修行を台無しにする人を見るにつけ涙を禁じ得ません。 そのような人は、三宝帰依もできないのですから、2500年前に人類が経験した域にも魂が達していないということを意味します。 人類は、神に向かって旅する永遠の旅人です。間違っても、今来た道を引き返すようなおろかなことをしてはならないと思います。 それは、自分だけのためでなく、残りの魂の兄弟たちのためでもあります。
次も信仰についての問答が続きます。
主エル・カンターレに感謝。
(終わり)