信仰とは何か(その6)「信仰には必ず試しが伴う」

 

先回に引き続き、信仰についてEさんとの問答です。 先回は、信仰には必ず精進と感謝が伴うことを学びました。 そこで今回は、信仰に試しがあるのかないのか、これを学びます。

以下は、Eさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回は、信仰には精進と感謝が伴うことを教えていただきありがとうございました。 これで、自分に信仰心がどの程度あるのか点検することができました。
そこで今日は、信仰心を常に強く保ち、一生、信仰の道を生きてゆきたいと思っているのですが、 長い一生ですから、その間に信仰心が試されるような出来事が起きるのではないかと、心配になってやって参りました。

【お助けマン】 やはり気になりますよね。 私たちが霊界に居るならそれほど心配は要らないと思うのですが、 肉体を持って物質が全てであるこの地上界に居る限り、信仰心は常に試しにさらされていると考えてもいいのではないでしょうか。

【Eさん】 私は、一生、この信仰を離すことはないと思っているのですが、 それは甘いのでしょうか。

【お助けマン】 甘いとまでは言いませんが、これでもか、これでもか、という試しがやってくると思っていいでしょう。 なぜなら人間は、この三次元世界に生きている限り肉体がありますし、また食べていかなければなりません。
例えば、自分が非常にお腹が減っているとして、食べものと真理の書籍を出されたとき、 あなたはどちらを取りますかと問われれば、あなたはどちらを取りますか?
やはり、食べものほうを取ってしまうのが人間の常なのです。 あるいは、食べものの代わりにお金や名誉であっても同じだと思います。と、言うように人間はどうしても自分の利害を先に考えてしまうのです。

【Eさん】 私は絶対に信仰を取ると思いますよ。でも少し心配ですが・・・。

【お助けマン】 そこです。先回、『信仰と情熱』という書籍をご紹介いたしましたが、 先回の続きの182ページからこのように説かれています。

あなたがたの信仰は、自分が心揺れないときのみの信仰であって、 心揺れるときには信仰なき人が九割を超えるという事実を忘れてはならない。
順境のとき、平和のとき、平安のときには信仰を守れても、そうでないときにはもろくも崩れていくのが、 あなたがたの真実の姿ではないか。
そのような信仰心が本物であるかどうかは、 歳月のなかで、やがて必ずや試されることがあるということなのです。

と、あります。
ですから、信仰には必ず試しがあると言ってもいいのです。 順風満帆のときに信仰心を維持できたとしても、人生の困難に遭遇すると、人はもろくも信仰を手離すこともあるということです。

【Eさん】 いや聞いていますと、旧約聖書の中のヨブ記の中の ヨブの物語を思い出しますね。確か、ヨブに次から次へと不幸が襲い、ヨブがあるとき神に対して疑いを持ったとき、 神は、おまえに何が分るのかという意味のことを告げられたというような物語があったと記憶しています。

【お助けマン】 そうです。この三次元の世界は修行の場です。 放っておくと人は、自分の生き易い方向に流れていくだけです。 しかし、そのときに何があっても踏み止まって真理のために生きられるかが、人生の貴重な学びでもあります。

【Eさん】 そう言えば、私のまわりでは、信仰心の篤き人たちに多くの奇跡が起きています。 しかしながら、一方では、まれに信仰を持っているのに交通事故にあったとか、会社からリストラされたという人がいて、 その人たちが落胆して信仰を簡単に手離してしまったことを聞いたことがあります。 ヨブの試練から比べるとはるかに軽いことですが、これも試しでしょうか?

【お助けマン】 はい、そうだと思いますよ。信仰とは試練のなかにあってこそ強くなるものです。 あたかも鉄の焼入れのようなものでしょうね。 鉄にとって焼かれることはつらいことですが、水に入れられてハガネへと変身するということです。 おそらく人間も同じで、試練を通して阿羅漢や菩薩に変身していけるというシステム(神仕組み)があるものと思います。
さらに、その書籍の183ページにさらにこのようにあります。

真実、仏法真理を知るということは、
勇気を呼び起こし、不退転の意志を呼び起こし、あなたがたを強くするのです。
信仰によって弱くなるということはあり得ない。
真実の目覚めがあなたがた訪れたときには、
たとえ、千貫の岩塊が、その身を打ち砕くとも、
たとえ千匹の虎にその臓腑を食い破らるるとも、
たとえ、万羽の鷲によって目をえぐらるるとも、
その信仰は決して揺るがない。
そのようなものでなくてはならない。
そうした心境に達するには、まだまだ、はるかに遠いものがあるということを、
あなたがたは感じることであろう。
それはまだ、真に知っていないということなのです。
真に知るということによって、
この世的なる価値といわれるものが、
ことごとく、蜃気楼のごとく淡く、色があせて、
取るに足らないものに見えてくるのです。
そして、ただ一筋に、仏法真理の道を歩みたくなるのです。
そうならなければ本物ではありません。
そうならないのは、まだ真に知っていないということです。
真に知っていないからこそ、誘惑に負ける。
甘やかしに負ける、そそのかしに負けてしまう。

と、あります。
真に知るということは信仰を強くし、その信仰を揺るぎのないものへと変えるのです。 ですから、もし簡単に信仰を手離した人がいるとするならば、たとえその人がもっともらしいことを言い、 また、皆をうならせるようなことを言ったとしても、それは、真に知っていないということなのです。 別の言葉で言うならば、全く悟ってないということです。

【Eさん】 やはりそうなのですね。 真に知るということと信ずることは同じだったのですね。 また、それは悟りだったのですね。

【お助けマン】 はい、そのとおりです。
さらに、 『仏陀再誕』の第7章「信仰と仏国土建設への道」では、次のように説かれています。

悪魔はいつの時代も、人びとの疑いのなかに入り込み、
人びとの疑いのなかに入って、お互いの意見を合わなくする。
お互いにわけのわからないことを言わせ、仲たがいをさせ、
そして、引き裂いてゆく。
信仰を引き裂こうとする。
信ずる者の心をかき乱そうとしてゆく。
しかし、人びとよ、決して迷ってはならない。
自分の小さな頭で何がわかるか。
自分の小さな頭で理解したところで、いったい何がわかるか。
小ざかしい知恵で何がわかるか。
なにゆえに、そのような小さな頭で、
なにゆえに、そのような小さな知恵で、
仏陀の叡智を量ることができるか。
・・・(中略)・・・
もし、そなたがたのなかに、信仰にて迷いがあるならば、
静かに群れを離れて、心穏やかになるを待て。
その時を待て。
決して、何も批判を口にしてはならない。
静かに自らの心を平らかにして、過去の人生を振り返れ。
そして、自分がどれほど多くの光を、多くの愛を、
与えられてきたかということを感謝せよ。
そのことを感謝せずして、みだりに疑いをはさみ、
みだりに人の心を迷わせてはならない。

と、あります。
何か先ほどのヨブ記の神の言葉に似ていますが、もし、万が一、自分の信仰がぐらついたときには、

静かに群れを離れて、心穏やかになるを待て。
その時を待て。
決して、何も批判を口にしてはならない。

と、言うことがはっきりと説かれています。

【Eさん】 びっくりですね。本当に、30数年後の現在を見透かされているように、すでに説いておられたのですね。

【お助けマン】 そうです。未来リーディングができるということは、もちろん仏陀の神通力の一つでもありますが、 神は私たちの全てをご存知だということです。つまり、神というものを私たちと同じ感覚でとらえてはならないということなのです。 だって、人間の感覚をはるかに超えた存在こそが神であるからです。

【Eさん】 はい、よく分かりました。 神をヨブのように自分の感覚で判断しようとしてはならないのですね。 そして、信仰に試しはつきもので、簡単に負けてはいけないということ、 もし、万が一、信仰が揺れた場合には群れを離れて反省行をしないといけないということも分りました。
今回、私はこの仏陀再誕の奇跡の時代に生まれ合わせたことに感謝して、 心して生きていきたいと改めて思いました。 それではこれで失礼いたします。

と、言ってEさんは帰られました。
30数年前に、現在を見通して信仰を維持することの大切さを説かれていたことに改めて驚かされました。 それにしても、当時よく勉強をし、多くの法友から尊敬されていた人が、 いとも簡単に信仰を手離すような出来事があったと聞き残念でなりません。
そのときに説かれたことは、単なる学説であるとも思っていたのでしょうか。 あるいは自分は悟っているので、自分は例外であるとでも思っていたのでしょうか。 これらの出来事はやがて仏典となり、反面教師として数千年の間、語り継がれていくことでしょう。

次も信仰についての問答が続きます。
主エル・カンターレに感謝。

(終わり)