信仰とは何か(その5)「信仰には必ず精進と感謝が伴う」
先回に引き続き、信仰についてEさんとの問答です。 先回は、信仰は次元の壁を超えることについて学びました。 そこで今回は、信仰心があるか否かの点検をどのようにすれいいのか、これを学びます。
以下は、Eさんとの会話の内容です。
【Eさん】 先回は、信仰の霊的意味を教えていただきありがとうございました。 信仰を持つことによって、霊界の次元を超えられることが分かりました。 ところで、祈りとは、祈りの対象に対して電話をかけるようなものということも聞いたことがありますので、 祈りは、次元を超える信仰という行為と同じことを意味しているのではないかと思いました。だから、信仰に基づく宗教では必ず祈りの必要性が説かれているのですね。
【お助けマン】 そのとおりです。段々と霊界の科学が分ってきたのではないでしょうか。 先回、科学的な真実を世の中に示したことにより、教会から弾圧を受けたガリレオのことを紹介いたしました。 実は、霊界を解明することも立派な科学なのです。ガリレオは、地球が太陽の周りを回っているという地動説を述べるにあたり、 その当時の常識である太陽が地球の周りを回っているという天動説と激しくぶつかりました。
とかく、新しい真実を述べることは歴史から見ても多勢に無勢の戦いを強いられて、それが受け入れられることは非常に難しいものなのです。 それだけ人類はガンコなので、それを世の中の人びとに納得させるためには相当なエネルギーが必要だということです。
【Eさん】 それは分かります。 地動説だけでもこれほど難しいなら、ましてや霊界や神の存在、ならびに宇宙人の存在を常識とするためには、それ以上の膨大なエネルギーが必要ではないでしょうか。
【お助けマン】 だからこそ、今、新しい地動説である霊界科学を打ち立てるために、 矢継ぎ早に霊言が降ろされており、またそれが、書籍として発刊されているのです。 ところで、今日おいでになった用件は何でしょうか?
【Eさん】 はい、ありがとうございます。
実は、信仰心があると言うことを言葉で言うことは簡単なことなのですが、 果たして本当に自分に信仰心があるのか、それをどのようにして見分ければいいか、また何か基準があるのか、 それを知りたくてやって参りました。
と、言いますのも、私が信者になりたてのときに周りに居た古い信者さんで、 明らかに信仰心があるように見えた方が最近あまり来られなくなったので、 消息を聞いたところ退会されたのではないかとのことでした。それがショックで・・・。
その人は、常に仏陀への熱き思いを語っておられ、信仰心は人一倍強い方だと思っていたので、私にはショックでした。
【お助けマン】 それは、さぞびっくりされたことでしょうね。 信仰心があると思っていた人が退転したり、 逆に、あまり信仰心を言わないのでどうなのかなと思っていた人が信仰心が強かったりで、 何を基準に判断すればいいのか、非常に難しいところですよね。
【Eさん】 そうなのです。だから、信仰心があるかないかをの判断をどのようにすればよいのか、 これを聞きにやって参りました。
【お助けマン】 はい、分かりました。
そう言えば、私も同じような経験をしたことがあります。 私が以前、支部で白い手袋をしないで誤ってご本尊に触れてしまったところ、 ある先輩から私の信仰心のなさを強く叱られたことがありました。 もちろん私が悪かったので、その先輩の信仰心の強さに感心したものです。 しかしながら、その先輩は、支部の役から外れるといつの間にか支部にも来なくなってしまいました。 じゃ、あのときの信仰心をどう解釈すればいいのか、とまどってしまった経験があります。
信仰心の元にはもちろん「素直な心」があるのですが、実は、1990年12月に土屋書店から出された書籍で、今はもう絶版になっている 『信仰と情熱』という本があり(その後、復刻された)、その第4章「栄光への道」の148ページ(復刻版174ページ)からこのように説かれています。
信仰心があるということは、
一つには、「神仏への道のりを、日々、歩み続ける」ということであり、
これは、「日々、精進し続ける」という姿勢を意味している。
「信仰心はあるが精進はしていない」ということは、あり得ない。
よいですか。
自分の心を偽ってはならない。
「信仰心はあるが、今のところ精進をしていない」というようなことはありえない。「 信仰心はあるが、精進を怠けている」ということはありえないのだ。
精進なくしては、信仰ももはやそこにないと言わなければならない。
これが一つである。
感謝
もう一つは、
「信仰心が伴うならば、必ずや感謝というものが出てくる」ということだ。
感謝の思いが出てくるのだ。
「信仰心はあるが感謝の思いはない」ということは、 ありえない。
信仰心があれば、
常に「精進する気持ち」となり、
常に「感謝の心」が起きてくるのである。
この二点を確認するならば、あなたがたが、少なくとも信仰の道に入っているかどうかが明らかになるのであります。
「 信仰心あり」と称しても、感謝の心なき人は、 その信仰心を自らのプライドを飾るために使っているということが言えます。
精進のみはしているように見えても、感謝のない人であるならば、その信仰心ある姿を、自らを飾るために使っているということです。
感謝を必ず伴なわなければなりません。
そうして、感謝を伴う姿勢の中に、謙虚さというものが自然自然に表れてくるのです。
と、あります。 今から考えると、その先輩は、常に信仰心が大事であることを言っていましたが、 そう言えば毎日反省もしていないし、真理の書籍もたまにしか読んでないと言っていました。 また、食事においても好き嫌いが激しく、いつも何かしら食事を残してしまって、 どうも感謝の心があるように思えませんでした。
【Eさん】 なるほどね、よく分かりました。これこそ「仏言」ですよね。 信仰心の有無は、根底には謙虚な心があって、少なくともこの「精進」と「感謝」の心の二点を確認すればいいということですね。
【お助けマン】 そうです。言葉や振る舞いにおいて信仰心があると言っていたとしても、 真実か否かは日常の生活において、この二点を確認すればいいということです。
【Eさん】 私が入会当初に知り合って、その後、退会された会員さんも、ご自分の宗教経験が豊富なので、 いつも周りの人たちに拝礼のし方が悪いとか、 経文の朗読の速さが早すぎて宗教性に欠けるとか言っておられたのですが、 今から考えますと、信仰心を自分のプライドを飾るために使っておられたように思います。
【お助けマン】 幸福の科学自体は新しい宗教なので、当初は皆、経験の無い人たちばかりで、 他宗教での経験者は、皆、信仰心があると見えたのかも知れません。 例えば、信仰心が大事だと言っていた人が精進していなかったり、 また感謝もなかったりで、変だなと思いつつも経験者だからということもあったと思います。 しかしながら、この法が出されたことによって信仰心の点検のポイントがはっきりしたと思います。
【Eさん】 はい、分かりました。
じゃ、なぜ信仰心には「精進」と「感謝」が伴うのでしょうか?
【お助けマン】 はい、その信仰心には必ず「謙虚な心」というものがあります。 もし、自分は偉いのだと思ってしまったならば、勉強はしなくてもいいので精進の心も、もちろん他に感謝する心も出てくることはありません。 ですから、その謙虚な心があるからこそ精進の心が現れ、また、謙虚な心があるからこそ感謝の心が現れるという関係にあると思います。
おおよそ修行者というものは、自分の悟りが高いことを人から認めてもらいたいという気持ちを大なり小なり持っています。 もちろんその思いが求道心になり、修行への熱意となることは確かですが、どうしても認めてもらいたいがために、 自分に強い信仰心があることを態度や行動で表そうとします。しかしながら、その信仰心が本物かどうかは、 この二点から点検するばすぐに分かってしまうということです。 従って、偽善者にとってはウソが通用しないので、言わば怖いことだと思いますよ。
【Eさん】 でも、初めは、非常に熱心で信仰心も強いと思われた人が、なぜ、いとも簡単に退転するのでしょうか?
【お助けマン】 当初は、自分の過去の宗教経験のおかげで皆から認められていたところが、 あとから来た人が精進を重ねて信仰心や悟りの実力をあげることによって、 相対的に自分が重宝される度合いが下がったことに耐えられなくなったのではないでしょうか。
【Eさん】 それで、あげくのはてに仏陀を批判したり教団を中傷したりして、 逆の立場で皆から認められたいと思ったのですね。
【お助けマン】 そうです。インターネットのブラックサイトやYoutubeなど便所の落書きサイトを見れば分りますよ。 アンチであっても自分が皆から認められたいということなのです。 結局は自分が中心なのです。自分が、自分が、という自我が強いのです。 事件を起してでも有名になりたいという事件簿と何か共通点があるように思います。
ですから、当初の信仰心も、単に自分を飾るための見せかけのものだったかも知れないということです。 従って、自分に対して、まずはこの二点によって信仰心の点検を行えば、信仰心のあるなしの判別ができるということです。
例えば、次のことを自分に問えばいいのではないでしょうか。
1.自分は、日々真理の書籍を読んでいるか
2.自分は 日々寝る前に必ず時間を取って、今日1日の反省をしているか
3.自分は、日々他人や生き物、食物、空気や水、太陽の光に感謝しているか
4.自分は、日々守護・指導霊に感謝し、何よりも主に感謝の祈りをしているか
これらが出来ていなかったならば、たとえ態度の上で信仰があるように振舞ったとしても、信仰心はないということです。
【Eさん】 はい、よく分かりました。 形も大切ですが、実は、その根底に「謙虚な心」があって、 その現れとしての「精進の姿勢」と「感謝の心」が大事であることがよく分かりました。 やはり信仰心は誤魔化せないものですね。必ず現れてくるものですね。
今日もいいお話しを聞かせていただきありがとうございました。 本日のお話しを肝に銘じ、「精進」と「感謝」の心で生きていきたいと思います。 それではこれで失礼いたします。
と、言ってEさんは帰られました。
当初、熱心に活動をしていた人が退転するのみならず、 今度は180度逆転して仏陀を批判したり教団を中傷するような態度になることも、 自我の表れであったと思えば、理解できなくもありません。 言葉や態度で信仰心を表すことも大事ですが、「精進」と「感謝」は、 これから私たちにとって信仰心を点検するための非常に分かり易い指針となるということを理解していただければ幸いです。
次も信仰についての問答が続きます。
主エル・カンターレに感謝。
(終わり)