信仰とは何か(その3)「知ることと信ずること」

 

先回に引き続き、信仰についてEさんとの問答です。 先回は、信仰とはただ盲目的に信ずることではなく、事実の確認そのものでもあることを学びました。
では、知ることと信ずることにはどうのような関係があるのか、今回はその問答が続きます。
以下は、Eさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回は、信仰とは事実の確認そのものでもあることを教えて頂きありがとうございました。 とかく、信仰とはそこに疑が入ってはならないということで、何しろ信じなさいというところがありましたが、 それが事実の確認そのものとは、本当に目からウロコが落ちるようでした。

【お助けマン】 信仰という言葉には手垢がついているというか、それ自体は古くから使われてきた言葉ですが、 ここで改めて「事実の確認そのもの」という定義は、非常に新鮮であったのではないでしょうか。

【Eさん】 はい、びっくりしました。その意味においては、盲信ということはこれで無くなるのではないかと思います。

【お助けマン】 はい、そのとおりだと思います。
ところで、今日は、どういうことでおいでになられたのでしょうか。

【Eさん】 あっ、そうでした。忘れていました。今日は、知ることと信じることにはどういう関係があるのか、これを聞きにやって参りました。 つまり、事実や真実を知れば知るほど信ずる力が薄れてくるように思えるのですが、その辺はどのように考えればいいのでしょうか? これを知りたいのです。

【お助けマン】 はい、分かりました。「知ることと信ずること」ですね。
これについては、ずばり、大川総裁が書籍の中で述べられているとことがありますので、そこをまず紹介させていただいたほうがいいですね。
それは、 『伝道論』の書籍で、昔は土屋書店から出されていたようですが、今では会内の経典として発行されています。

【Eさん】 その経典なら支部で見ました。今、持ち合わせていませんので読んで頂けますか?

【お助けマン】 はい、分かりました。第8章の「知ることと信ずること」です。

宗教自体は、永い歴史のなかで、人びとに知識を与えるのではなく「素朴な心で信ぜよ」というかたちで訴えられることが多かったと言えます。
ところが、この「素朴な心で信ぜよ」という教えが、近代以降は非常に苦しい立場に置かれることになりました。 なぜなら、デカルトの出現以来、「知る」ということが非常に大事なことと考えられるようになったからです。
「物事を分析的にとらえていく」という考え方を提示した点で、デカルトは非常に画期的な思想家であり、 また、近代思想の先駆者でもありました。しかし、彼の出現以来、「知る」ということと「信ずる」ということの両立が難しく思われはじめたのです。(中略)
知識社会が非常に発達するにつれて、信ずることが難しくなってきたように感じられるのも、 知識社会の発達が無神論を呼んでいるのも、単なる偶然ではありません。
「現代人たちの不信仰は、 知ることと信ずることの理解が充分でないところに起因する」と考えられるのです。

と、あります。

【Eさん】 なるほどね。確かに「知る」ことと「信ずる」ことの両立は難しいですね。
特に日本では、「私は宗教に入っています」というと、何か知性的に劣るように思われたり、 あるいは、宗教とは非科学的なるものであって、現代の高度な文明になじまないという考えがあるようですね。

【お助けマン】 確かに宗教をそのように判断してしまうこともあるように思います。 なぜなら、つい一昔までキツネが憑いているからと言って、穴の中に入れて煙でいぶして治療をするということもあったようです。
ですから、誰が考えても明らかにおかしいことをすることがないように、戒めの意味もあったように思います。 しかしながら、そうだからと言って無神論になってしまうのも短絡的だし、それこそが無知ではないかと私は思います。
現代の科学では説明することのできない奇跡も実際にありますし、また、高級神霊による霊言だってあるのですから・・・。

【Eさん】 じゃ、「知る」ことと「信ずる」という両者の関係を、どう考えればいいのでしょうか?

【お助けマン】 はい、それについても、しっかりと述べられていますので、そこを読んでみます。

分析的認識を超えた世界を広い意味で知ることが、実は信ずることなのです。 信ずることを未開社会のものと考えるべきではありません。 信ずるという行為は、人間の認識力において、知るという行為よりも大きな力を持っています。 信ずることのできる世界のなかに、知ることのできる世界がある――そうした包含関係になっているのです。

と、あります。 つまり、ここで「知る」ということと「信ずる」ことの両者の関係が、はっきりと示されたのです。

【Eさん】 いやいや、びっくりしました。 人類が長年にわたって思い悩んできた「知る」ことと「信ずる」ことの関係がやっと分りました。 両者が包含関係にあるとは驚きです!

【お助けマン】 そうです。 言われてみれば、簡単なことだったのですが、長年、誰も分からなかったのです。 つまり、両者を平面的に考えて、右か左かで考えていたのではないでしょうか。 まさか包含関係にあるとは誰も思いつかなかったのです。 つまり、立体的に両者を考えないと、この位置関係という答えは出てこないのです。
これも仏陀の証明です。 なぜなら、高い悟りをもってしなければ分からないことだからです。

【Eさん】 やっぱりこの時代に生まれて本当に良かったと思っています。

【お助けマン】 そのとおりです。これだけ法が学べるのも仏陀がおられるからこそです。 さらに、そのあとの文章でこのようにも述べられています。

「知と信は互いに排他的な関係にあるのではなく、包含関係にある。 また、知は信に奉仕することも可能である」ということを述べました。
それでは、みなさんが向かわねばならないのは、どの方向でしょうか。
まず、広大な「信の世界」「信ずる世界」を自分のものとすることが必要です。
そして、それを他の人びとにも知らせてあげることです。 「知の世界を超えた信の世界がある。人間の理解や認識を超えた世界が現にある」ということを、 驚きをもって説明しなくてはなりません。(中略)
「信ずる」という世界に目覚めた人たちは、次に何をすればよいのでしょうか。
それは、仏法真理を探究し、学習することによって、「信の世界」をみずからの「知の世界」に変えていくことです。 「信の世界」を「知の世界」に変えていくからこそ、それを確認しつつ、他の人にも教えることができるのです。
この大きな地球を人類がくまなく踏破していくように、みなさんも、探究と学習を積み重ねることによって、 広大無辺な「信の世界」、信ずることしかできなかった世界を、しだいに「知の世界」へと変えていかなくてはなりません。

と、あります。
これは非常に高度なことが、いとも簡単に、かつ、明快に説かれているのです。 つまり、真理を学び初めた時は、なかなか知識として理解ができなくて信ずるしかなかったことでも、 その真理を深く探求し、しかも、じっくりと学習することによって知識へと変えることができるということを意味しているのです。 そして、それが知識になったからこそ、それを他の人たちに伝えることができるということなのです。

【Eさん】 本当だ・・・。ここに来て、今まで信じるしかなかったことを、知と変えることができるということですね。

【お助けマン】 そのとおりです!びっくりでしょ!
これは教えのある宗教だからこそ成せることなのです。そもそも教えがなければ知ることもできないからです。 そして、知れば知るほどに信の部分が固まってきて知になりますので、その上にある信は、ますますより堅固に強くなるということです。 ですから、知を悟りと言い換えれば、悟れば悟るほどに信仰も強くなるという関係にあると言えます。

【Eさん】 分かりました。そうすると、もし、信仰を無くしてしまった人がいるとするならば、その人の知が暗かったということになるのではないですか?

【お助けマン】 さすがEさん! よく気が付かれましたね。 もし、信仰を弱くしたり無くした人がいるとするならば、残念ながら彼らは知に弱かったという結論になります。

【Eさん】 でも、彼らはそうとは思ってなくて、自分こそが正しいと思っているのではないですか?

【お助けマン】 そこが彼らの愚かさでしょうね。 死んだあとには必ず分ることですが、だからこそ、その前に私たちは警告を続けているのです。

【Eさん】 よく分かりました。もし、自分の信仰がぐらついたり、不信の心が出てきたと思ったならば、 原点に戻って、素直に真理の勉強をし直せばいいのですね。

【お助けマン】 そうです。その勉強をしないで自分勝手な解釈をするからこそ、 ますます信仰を失ってしまうということなのです。

【Eさん】 はい、分かりました。今日もいいお話しをありがとうございました。 今日は、信仰の話しではありましたが、真理の勉強がいかに大事であるかが分かりました。
やはり精進は信仰と密接に関係するものですね。 今日のお話しを肝に銘じて精進したいと思います。それではこれで失礼いたします。

と、言ってEさんは帰られました。
「常識の非常識」と言葉があります。 知と信は相反することが常識であると思っている人が多かったと思います。 しかしながら、高等宗教においては、学べば学ぶほど悟りが高まり、 また同時に信仰も高まっていくものであると言うことがこれで理解できたのではないでしょうか。

次も信仰についての問答が続きます。
主エル・カンターレに感謝。

(終わり)