信仰とは何か(その2)「信仰とは事実の確認そのもの」

 

先回に引き続き、信仰についてEさんとの問答です。 先回では、日本の信仰の底流にアニミズム(自然崇拝や精霊崇拝)があることを学びました。 また、日本には、「イワシの頭も信心から」と、摩訶不思議なことは何でも信じるという傾向もあって、今回は、この流れに対してどういう考え方が必要であるのか、その問答が続きます。
以下は、Eさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回は、日本の信仰の底流にアニミズムがあることを教えて頂きありがとうございました。 そこで、幸福の科学はその流れに対して新しい流れでもあるわけですが、それをどのように考えればいいのか、 今日は、そのところを聞きに来たのです。

【お助けマン】 そうですね。信仰の形態をアニミズムのままで放置したならば、それは先祖がえりをするだけですから、 それに対するアンチテーゼなるものを出し、むしろ、一旦否定して逆に振らなければその流れを修正することは難しいでしょうね。

【Eさん】 じゃ、それについて幸福の科学では当初、どのような教えがあったのでしょうか?

【お助けマン】 これはもう初期の頃のことですので、私もはっきりとしたことは分からないのですが、 幸福の科学が設立された当初、新しい宗教ができたらしいということで宗教好きの人たちが多く集まってきたと聞いています。 信仰のことなら経験豊富な私に任せて下さいというような人たちが集まってきたということです。 しかし、そのままに放っておいては、宗教の改革にもならないということで、実は真実はこうなのだという考え方を出されたように思います。
そのとき、信仰についての真実の考え方が出されました。 その内容を収録した書籍が、 『真説・八正道』ですが、内容が非常に濃かったと記憶しています。

【Eさん】 そういう書籍があったのですね。そこを読んで頂けませんか?

【お助けマン】 はい、分かりました。36ページからです。

信仰心について、最初のころは、私はあまり多くを語ってきませんでした。それは、「信仰」という言葉には、 それ自体にひとつのイメージが付着しているからです。 幸福の科学では、幸福の科学の意味合いにおいて信仰心を説く必要はあるのですが、 信仰ということを説くことによって、それが従来の宗教における信仰とまったく同じようにとられるのを、 きわめて恐れていたからであります。
しかし、本来、真理というものはカッチリとした骨格があるのであり、この部分は何人も疑いえないものです。 あるいは揺るがすことのできないものです。また批評し、分析することができないものであります。「人間が神仏により創られ、永遠の目的のもとに生きている」という事実は、議論を許さない事実なのです。

と、あります。ここに説かれていますように、新しい宗教ができると、宗教オタクと言うか宗教ジプシーなるものが多数集まって、 自分勝手に信仰の意味を解釈することを恐れられて、当初、信仰という言葉をあえて出されなかったのです。

【Eさん】 そうだったのですか。私は会員になって1年ぐらいなので、二十数年前のことは分かりませんが、 現在、幸福の科学では信仰は何よりも大切であると言われていることですが、 当初はそれをストレートに出したくても出せなかったのですね。

【お助けマン】 そうです。ですから、まずは今まで持っていた宗教や信仰についての概念を一旦捨てて、 白紙の状態になって学び直して欲しいという再誕の仏陀の配慮だったとも考えられます。

【Eさん】 それで分かりました。幸福の科学のような教えがしっかりとある宗教が、 自然のままでありがたいというアニミズムやご利益信仰などと同等に扱われることを恐れられたということですね。

【お助けマン】 そのとおりです。 さらに、この書籍の20ページに、「信仰」とは何かということについて述べられています。

信仰と言うと、みなさんはどこか遠いところにいる神を拝んだり、あるいは他力を頼むイメージが強いかもしれませんが、 信仰の原点はいったいどこにあるかと言うと、私たちが神によって創られたという創造の秘密にあるわけです。 私たちが神によって創られたということを信じるか、そして神によって創られた私たちが、 永遠の生命のなかで無限の転生輪廻をくり返しながら魂修行をしているという、その説を信じるか、ということです。 まず、これを問われているわけであります。
これを信じるとき、ここに信仰が始まります。この信仰がない場合には何も始まらないのであります。 この「信仰」という土台のもとに、「愛」も「知」も「反省」も「発展」もあるわけであります。 「正しき心の探究」もそうです。すべてに、この信仰という土台があるのです
したがって、この信仰というものは安易なものに思ってはなりません。 あるいは手垢のついたものとして考えてはならないのであります。そうではなく、もっと深い、根源的なものであります。 この信仰と言うべきものは、従来使われている信仰心という言葉で表現される内容ではありません。 ここで言う信仰は、事実の確認そのものであるということであります。 真実の確認そのものであるということであります。 そうした大いなる叡智の断片を見たということであり、仕組みを見たということの確認であります。 見たという以上、これを知るということ、そしてそれを受け取るということ、了解するということ、 そしてこれを信じるということ。この行為を「信仰」というのであります。

と、あります。

【Eさん】 いやー、驚きました。信仰とは単に信じることだけだった思っていましたが、 極めて知性的なところが土台になっているのですね。

【お助けマン】 はい、そうです。宗教にとって信仰は一番大事なものであるが故に、 安易に流れるといけないので、その真実の意味や定義づけから説かれていったのだと思います。

【Eさん】 事実の確認と言うこと、そして、それを知って受け取り了解すること、 これがすなわち信仰だということは、単に信じましたということでは決してありませんよね!

【お助けマン】 そのとおりです。さすがEさんですね。 ですから、その意味では、 「いわしの頭も信心から」ということは、幸福の科学ではありえないことなのです。
つまり、この意味において智慧と信仰はいわば同じということになるからです。 難しい言葉で言えば、悟りと信仰とは同じということになります。

【Eさん】 なるほどね。真理を知らなければ、 何の事実や真実を受け入れて、それ信じたらいいかが分からないということですね。

【お助けマン】 そうです。先ほどの説法にもありましたように、大いなる叡智を見て、それを了解し、 そしてこれを信じるということが、実は、信仰の出発点なのです。
そして、それはむしろ弁証法的に発展し、その信仰心は段々と高みに昇っていくということなのです。 また逆に、信仰心を無くすということは悟りを無くすということと同義となります。 つまり、信仰なき人は悟っていないということでもあるのです。

【Eさん】 分かりました。そう言えば、昔、聖アントニウスという十次元的存在があることを方便的に述べられたことがあったと聞いていますが、 それも段階的に信仰心を高めるためのステップだったのですね。

【お助けマン】 そうです。そのとおりです。私たちの認識力が高くないときに、 理解できないことを言っても混乱するだけなので、方便を用いながら導いて下さったということです。それを知らずに大川総裁は、 昔に言ったことと違うのでおかしいのではないかと言う人がいるとすれば、それこそ言う人のほうがおかしいということです。

【Eさん】 やはり心は柔軟でなければいけませんね。 その都度、私たちの理解のレベルに合わせて説いて下さっているということですね。

【お助けマン】 そのとおりです。これも神の愛なのです。 ですから、仏陀や救世主と同じ時代に生まれられるということに感謝しないといけないと思います。 なぜなら、私たちは段階的に学ぶことができるからです。 そして、間違っても神の言葉が途中で変わったからおかしいなどと迷いごとを言わないことが大事だと思います。

【Eさん】 だから、今、宇宙人が出てきたのですね。 もし、当初に宇宙人の霊言が出てきたら、これはもう「き印」の団体としてレッテルを貼られたかも知れないですね。

【お助けマン】 ですから難しいのです。弟子の認識力が上がり、教団としての実績が出てこないと、 再誕の仏陀も真実を早く説きたくてもを説けないのです。
だからこの先、どのような教えが説かれても、 落ちこぼれることなく、謙虚に学ぶ姿勢が大事だと思います。

【Eさん】 はい、分りました。 理解できないことを法の責任にしてはならないのですね。 もし、法を批判したりするならば、自分が神になってしまいますものね。 (でも、それこそが悪魔ですが・・・。)  今日もいいお話しをありがとうございました。 来週の話しも楽しみです。それではこれで失礼いたします。

と、言ってEさんは帰られました。
改めて仏陀の叡智を学ばせていただきました。いや、失礼、エル・カンターレの叡智でした。 エル・カンターレの叡智には、この地球だけに止まらず宇宙全体の真実もあります。 たとえそれが、どれほど現実とかけ離れていたとしても、それが事実であり真実です。 そして、それを知って受け入れ、了解するところに信仰の原点があるように思いました。

次も信仰についての問答が続きます。
主エル・カンターレに感謝。

(終わり)