禅定の中で自分を見つめ直すとは何ですか?(その1)

入会して半年のEさんは、最近、瞑想などの修法に興味を持たれたようで、 今回は、禅定について聞きに来られました。
以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回は、むつかしいことを聞いてすみませんでした。 でも、お聞きしてから何か自分の存在が非常に大きく感じられ、不思議な感じがしました、
それから、私は、禅定について興味を持ったものですから、その関係の書籍を読ませていただきました。 でも、分らないところが多くあって・・・。

【お助けマン】 すごいですね。先回、 『沈黙の仏陀』で禅定について学ばれて、さっそく禅定の書籍ですか。それで来られたのですね。
ところで、分らないところとはどの部分ですか?

【Eさん】 はい、 『心の挑戦』の第3章「禅定の本質」に書かれていたことですが、その中で分らないところがあったのです。 その部分を読ませていただきます。

みなさんは、非常に生々しい衝撃的なニュースを聞いたあとには、心が乱れるでしょう。 あるいは、人と口角泡を飛ばしての議論をやったあとも、心が乱れるでしょう。 悲しい出来事に遭っても乱れるでしょう。また、酒を飲んで歌を歌っていても、結局、 自分自身とは何であるかを忘れていくでしょう。
要するに、そのような三次元的なさまざまな日常生活から、いったん自分自身を隔離させ、 遊離させて、三次元的なる波動というものを断ち切って、本来の自己とはいったい何であるのか、 自分自身の本来の姿とは何であるのか、それを見つめ直す行為こそが、禅定の本来のあるべき姿なのです。

とあります。
その中に、「本来の自己とはいったい何であるのか、 自分自身の本来の姿とは何であるのか、それを見つめ直す行為こそが、禅定の本来のあるべき姿」とありますが、 「それを見つめ直す」と言うところが分らないのです。

【お助けマン】 と、言いますと?

【Eさん】 つまり、禅定でどのように自分を見つめればいいのかが分らないのです。

【お助けマン】 それを誰かに聞かれましたか?

【Eさん】 もちろんです。でも、皆さんは言葉で「見つめることだ」とおっしゃるのです。 それで具体的にどうすればいいのかについては分らないので、自分で考えなさいと言われたのです。

【お助けマン】 なるほどね、これはもう悟りですから、説明するのは難しいということでしょうね。 しかしながら、悟りは言葉で表現できるものなのです。仏教学者やお寺のお坊さんが、 禅問答のように何か訳の分らないことを言っているとすれば、実は、自分も分らないのでごまかしているだけと思ったほうがいいでしょう。

【Eさん】 あっ、そうなのですか。何か難しい仏教用語で説明してもらっているのですが、 何のことかさっぱり分らないときが多くあります。そのときは、おっしゃってる方も分ってないということなのですね。

【お助けマン】 そうです。ですからごまかされてはいけないのです。 人間は、悟ったならば、その悟りの内容を言葉で分るように表現できるし、また具体的に説明もできるものです。 もし、その方が本当に悟っているなら、その悟りの内容を、この三次元世界でも分るように、上手に翻訳して説明しようと努力されるはずです。

【Eさん】 そうだったのですね。だから、仏教大学の学生が、長年、学校の先生の話しを聞いても分らなかったことが、 大川総裁の書籍を読んでやっと分ったと言っているのですね。

【お助けマン】 そうです。大川総裁の書籍は、あの難解な仏教理論をこれ以上簡明に説明することはできない というレベルまで分りやすくして書かれているので、他の仏教書のどれよりも分りやすいと思います。 ただ、自分で感じ取らなければならないところについては、自分自身で修法などを通して体験する必要があるということです。 先ほどの質問のあった「見つめ直す」というところはそれに当たるでしょう。

【Eさん】 まず、理論や知識のレベルで理解し、そして、次にそれを体験すると・・・。

【お助けマン】 そうです。まずは何よりも知識が大事です。 まず学ばなければ何を体験すればいいのか分らないでしょ。

【Eさん】 それはそうですね。禅寺に行けば、和尚さんがまずは座れと言っていますが、 座って何をすればいいのか分らないですよね。

【お助けマン】 そうです。ただ座っているだけで悟れるなら、 庭石のほうがどっしりと毎日座っているので人間より悟っていることになります。 人間には智慧があるからこそ、そこに悟りが生まれるということではないでしょうか。

【Eさん】 ところで、私の質問ですが・・・。

【お助けマン】 あー、忘れてました。禅定で自分を「見つめ直す」とは具体的にどうすればいいかということでしたね。
これは霊的な観点を抜きにしては語れないところです。 私たちは、この世、つまり三次元の世界に生きています。先回の問答でも述べましたように、 私たちは、本来、霊なのです。 その霊なる私たちが、過去世の全ての記憶を消されてこの肉体に宿り、霊とはまるで正反対の世界に閉じ込められて生活しているのです。 そして、年を重ねるにつれて、段々と自分が本来霊であることが分らなくなっていきます。 そして、悪くすれば、完全に唯物論的になり、死ねば何もかも終わりと思ってしまうようになります。 その自分が、本来霊であることを思い出す作法が、実は、禅定であると言えるのです。

【Eさん】 はい、何とか私もそこまで理解できるようになりました。
しかしながら、この知識をどう実感として感じ取ればいいのか、それが、今ひとつ、分らないのです。

【お助けマン】 そうそう、そうでしたね。 これからお話しすることは、あくまで私個人の体験なので、一般的ではないかも知れません。 しかし、何らかの参考になれば幸いと思ってお話しをさせていだきます。 なので、そのつもりで聞いていただければありがたいです。

【Eさん】 はい、分りました。それで結構ですので、是非、聞かせて下さい。

と、さらに問答が続きますが、このあとは次回に続きます。 お助けマンは、大川総裁の書籍を読み、そして、精舎の研修などに通い続けていくうちに段々と心境が上がったと言っています。

次回は、是非とも、皆様とともにお助けマンの禅定体験をお聞きしたいと思います。
主エル・カンターレに感謝。

(終わり)