時間と空間の交差点に立つ自分とは?

入会して半年のEさんは、最近、ずいぶんと真理の勉強に励んでおられますが、ときどき分らないところがあると言ってやって来られます。
以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。

【Eさん】 こんにちは。今日は、 『沈黙の仏陀』の内容の質問でやって来ました。 『沈黙の仏陀』は、簡略に書かれてはいるのですが、内容が濃く分らないところがたくさんあるのです。

【お助けマン】 確かに『沈黙の仏陀』には修行論が説かれていますが、まさしく悟りそのものの解説書なので難しいでしょうね。 ただ、難解な悟りをこれ以上平易に解説することは難しいというレベルまで書かれていますので、 仏教のどの経文よりも悟ることができるのではないでしょうか。 ところで、どの部分をお聞きになりたいのですか?

【Eさん】 はい、第一章のところですが、今日、書籍を持って参りましたので、 その部分を読ませていただきます。25ページのところです。

すべての時間的観点から見た場合に、
すべてのものは流れ去っていくものである。
そして、空間的観点から見ても、
すべてのものには、本来、我なるものはない。
自性なるものはない。
永遠に続いていくもの、
自分自身が生み出していく力によって続いていくようなものは、
何ひとつない。
現にあるものはすべて、
それ自体で成り立っているものではない。
何かによってつくられたるものであり、
また、必ず滅びていくことが確定しているものである。
それが、この世の存在である。
時間において無常、
また、空間において空。
そのような思想のなかで生きている我とは何であるか。
「我思う、ゆえに我あり」という思想もあるであろう。
しかしながら、そのような時間的・空間的観点において、
何ひとつつかみどころのない、
そのような縦と横の交わる交差点、
その十字架のなかで立っている我とは、いったい何であろうか。
それを深く考えなくてはならない。

と、あります。
何か気分的と言いますか、雰囲気的には分るような気がするのですが、 じゃ具体的に、その「縦と横の交わる交差点に立つ我」とは何を意味するかが分らないのです。

【お助けマン】 それはそうでしょう。それこそが悟りだからです。 ですから、これがスパッと分ったならば、もうそれで悟っていることになりますからね。

【Eさん】 それが分ることが悟りだったのですか。どうりで難しいと思いました。

【お助けマン】 とは言っても難しいと言ってばかりはおられませんので、私も探求中ではありますが少し考えて見ましょう。
時間と空間の意味ですが、時間は、この世では時間が諸行無常で流れていくところがおそらくイメージできるでしょうね。 また、その時間はこの世だけの有限の時間ではなく、あの世まで含めれば無限に流れていく果てしない時間があると思います。 また空間ですが、この空間とはこの世の空間だけではなく、あの世も含む全ての次元の世界をも含んだ空間のように思います。

【Eさん】 でも私たちは、この世でしか生きられませんし、また命も有限ですので、 時間が無限と言われても実感が湧きませんが・・・。

【お助けマン】 実はね、この世の時間と言うのは永遠の時間の流れから見れば一瞬の一点なのです。
私たちは、本来、あの世の住人です。霊としての存在が本来の姿です。 その私たちが、修行の必要性があって、何十年、何百年、何千年の間隔でこの地上に生まれては来ますが、 本来的にはあの世の住人なのです。ですから、軸足をあの世の本来居たところに置いてこの世を見たならば、 この地上に生まれ変わってくることは、例えば、映画の役者が、時々映画に出るようなものであって、 役者はちゃんと本来の自分の生活を送っているようなものなのです。

【Eさん】 そのような観点から見た永遠ですね。それなら分ります。 この世での人間の寿命は有限ですが、魂が転生輪廻しているという意味なら、それは無限と言えますね。 分りました。
ところで、空間とはあの世をも含んだ空間だと言われましたが、その時間と空間の交差点とはどういうことを意味するのですか?

【お助けマン】 よい質問ですね。この交差点という言葉がこの意味を理解するキーになるかも知れませんね。

【Eさん】 と、言いますと?

【お助けマン】 交差点とは文字通り「点」です。 つまり、4次元以上の世界の時間から見れば、無限の過去から無限の未来への時間は点ではなく、例えば、線のようにつながっています。また、同様に、4次元以上の世界では空間は、何重にも重なっています。つまり、高次元空間は下次元空間をすっぽりとおおっています。また、私たちは、仏を頂点とした「魂の系統樹」のつながりのなかにあって、決して自分が1点で独立して存在するわけではありません。
ところが、この3次元では、時間は時計時間で今は1つしかありません。また、場所も親から生まれて家庭の一か所にしか存在できません。つまり、今の時間と、この場所というのが、その時間と空間の交点に当たるわけで、これは1つしか存在し得ないのです。
しかしながら、本来の自分は、悠久の昔から未来に向かって旅する永遠の旅人であり、かつ、霊界では自分の霊格に合った霊界にいるわけです。
その自分が、3次元世界では1点にいるが、霊界における時間の線と、霊界の空間の広がりにいる本来の自分から、この3次元の1点にいる自分を見つめてみる。そうすると、あの世の本来の自分から見たとき、この3次元にいる自分が本当の自分ではないはずだと悟ることが大事なわけです。

【Eさん】 つまり、自分は、今の時間に、この場にこうして居るが、それは、仮の姿であって、本来の姿ではないと・・・。

【お助けマン】 そうです。
自分は、この時代のこの時間に、この国のこの家族のここにいるけれども、それは仮の姿であって、ほんとうの姿ではない。では、あの世の観点を含めて、本来に自己とは一体何者なのか。これを考えることが大事なわけです。

【Eさん】 その考えるとはどういうことを意味しているのですか?

【お助けマン】 つまり、それは、あくまでも見えている範囲である3次元を通しますが、霊的な意味を含めて、本来の自分自身の本当の姿を知ることに他なりません。

【Eさん】 自分の本当の姿を知れと言えば、鏡を見ればいいと言う人が出てくるように思いますが、 そのような狭い意味ではないということですね。

【お助けマン】 もちろんですよ。 実は、自分の本当の姿を知るということが悟りでもあるのです。

【Eさん】 なるほどね。その次から続く文章の意味が初めは分りませんでしたが、 何か分ってきたように思います。そこには、続いてこのように書かれています。

そうしてみると、
実は、本来の自己なるものは、
この肉体のなかに宿って、
特定の名前を持ち、特定の両親を持っている
あなた自身ではないはずである。
おそらくそうではない。
空間的にも時間的にも、
一切が、つかみとることができない。
そのなかに生きている我のみを、
ほんとうにつかみとることができるのだろうか。
そうではない。
その我というものも、
実は、仏の永遠の時間と空間なかで、仮に存在あらしめられ、
その掌(てのひら)において、遥(はる)かに見えている存在である。
川にたとえるならば、
その川のなかを流れていく泡沫(うたかた)、
その泡(あわ)にしかすぎない。
そう、いつか川の中から、水の中から生まれ、
そして必ず消えていくことになっている泡沫の自分。
その自分が、その泡沫のごとき、泡のごとき自分が、
「自分とはいったい何であるか」ということを考えている。
考え、考え、考え、考え抜いて、
そして永遠の実相なるものをつかみとっていく―――。
そこに涅槃寂静の境地が開けてくる。
すなわち、自分というものを通して、
仏の本来の姿を、その意図を、
その光なるものを見抜いていくこと。
そのためには、
己(おのれ)というものを、
限りなく、空しく空しくしていかなければならない。

と、あります。

【お助けマン】 本当にしっかりとありますね。「自分とはいったい何であるか」これを、この限られた三次元の世界で、 考え、考え、考え、考え抜くことが、実は、私たちがこの地上に生まれてきた意味だということでしょうね。

【Eさん】 はい、何か分ってきたように思います。自分は、点ではなく、霊的には時間的にも魂の空間的にもつながっていることを発見することですね。

【お助けマン】 そうです。時間的には、自分の魂が創られてから転生輪廻を繰り返し、 過去世でなしたことによって今世があるということ、そして、空間的には仏陀を頂点とする「魂の系統樹」があって、幹から枝が分かれ、 そのつながりによって魂が創られ、それからつながっている1点に魂の兄弟たちを含む自分がいると、 これをまず知識で理解し、また、さらに実感としても理解することが、大事なのではないかと思うのです。
実は、それを実感として感じるために、瞑想という修法もあるのではないかと思います。 ですから座禅も、これを実感として感じ取らなければ座っている意味はないということなのです。

【Eさん】 いやー、今日は、非常に難しかったけど、深いお話しをありがとうございました。全部は理解できませんでしたが、何か、悟りが進んだように思います。 今日、教えてもらったことは、仏教のお経を読んでも分らないことですね。 まさしく、仏陀が再誕されているからこそ、釈尊の教えの奥義が分るということですね。
本当にこの時代に生まれたことに心から感謝いたします。では、今日はこれにて失礼いたします。ありがとうございました。

と言ってEさんは帰られました。『沈黙の仏陀』50ページに、

「本書がいったい誰の思想によって著されているかを、あなた方はしみじみ悟ることになるでしょう。 沈黙を守りつづけた、その仏陀の声そのものが本書であるということを、もう一度確認されることを祈ります。」

とあり、大川総裁が、まさしく再誕の仏陀であることに一点の疑いの余地もありません。
主エル・カンターレに感謝。

(終わり)