考えることが難しいなら考えないことは簡単?
入会して半年のEさんが、 先回の「考えることができるだけでも大したもの」 の問答のあと、では、逆に何も考えないことは簡単なのかと聞きに来られました。
以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。
【Eさん】 先回の「考えることができるだけでも大したもの」では、考えることの難しさがよく分りました。 ありがとうございました。
そこで質問なのですが、考えることが難しいなら、逆に、何も考えないことは簡単だと思うのですがどうでしょうか? 例えば、仏教では「無念無想」という何も考えない修行がありますが、これは、誰にでもできることになるのではないでしょうか?
【お助けマン】 確かに仏教には「無念無想」の修行がありますが、この修行は誰にでもできる修行ではありません。 釈尊も大悟する前には、高名な指導者のところを訪れて、「無念無想」の修行を行ったという記録も残っているぐらいですから、相当難しい修行だったと思います。 (釈尊は、ルドラカ・ラーマプトラのもとで「非想非非想処(ひそうひひそうじょ)」と言って「無念無想」をさらに高度にした修行を行ったと言われている。【『釈迦の本心』第一章】)
【Eさん】 では、なぜ、何も考えないことが難しいのですか。 世の中、考えていない人が多いならば、皆、「無念無想」の達人ではないですか!
【お助けマン】 いや、そうではないのです。かえって考えないほうが難しいのです。
【Eさん】 それは、どういうことですか?
【お助けマン】 先回、確かに考えることは難しいと言いましたが、 世の中のほとんどの人たちは、考えていないのではなく「反応」しているのだと言ったはずです。 実は、この何も考えない「無念無想」とは、「反応」すらしてはいけないのです。 この「反応」という言葉が難しいなら、雑念をも起してはいけないということを意味するのです。
【Eさん】 あっ、そういうことだったのですか。それは難しいですね。 雑念も湧かせてはいけないと言うことは、何を考えても思ってもいけないと言うことですから、これは難しいでしょうね。
【お助けマン】 そうです。実は、そこについては、過去の真理問答の中の、 「心のコントロールはどうすればいいのですか?」にて、すでにお話したことなのです。
その問答の中で、心のコントロールの3つの方法を紹介させていただきました。 そのまず第一が、「思いの集中」で、第二が、何も思わない「無念無想」、そして、第三が、「思いの切り替え」でした。 その中で、何も思わない「無念無想」は、「思いの集中」よりも、むしろ難しいということを述べさせていただきました。
【Eさん】 あっ、そうでしたね。そのときにしっかりと聞きました。 何も思わないことは、思いを集中するよりも難しいとおっしゃっていましたね。
【お助けマン】 そうです。結局、何も考えないということは、「無念無想」の境地になることと同じとなり、結構難しいことなのです。
それじゃ、なぜ「無念無想」が大事かというと、それは、人間の悟りに関連してくるのです。 人間の悟りが高まってきますと、言葉で聞かなくても相手の思っていることが分るようになってくることはご存知のことと思います。 例えば、阿羅漢の悟りがありますが、『太陽の法』の197ページに、阿羅漢の悟りとは、
と、あります。さらに、阿羅漢の悟りよりもさらに高い心境である「観自在」の悟りになりますと、 「他心(たしん)」と言って、読心、 つまり、相手の心をマインド・リーディングできるようになります。 このように、悟りが高くなるにつれて、相手の考えていることが分るようになるのです。
【Eさん】 と、言うことは、言葉を発しなくても相手に伝わると・・・。
【お助けマン】 そうなのです。ですから、動物ならいざ知らず、人間で、 しかも悟りが高くなればなるほど相手が何を考えているのか手に取るように分るようになるのです。 ですから、考えていることが、言葉のように相手に伝わるということなのです。
【Eさん】 それは分りますね。「以心伝心」という言葉もあるように、考えていることが相手に伝わるということがあるようですね。 しかし、それは、たまにしか起こりませんが、阿羅漢や観自在の悟りになると、常に起こるということなのですね。
【お助けマン】 そうです。だから大変なのです。もし、相手が悟った人であるならば、 自分が考えたことが、そのまま伝わりますので、言葉を発したようになるということなのです。 従って、いつもくだらないことを考えたり、あるいは、人を攻撃するようなことを考えていると、 悟った人には、それが言葉と同じように相手に苦痛を与えると言うことです。
【Eさん】 じゃ、例えば、仏陀の前でくだらないことを考えたり、人を攻撃するようなことを考えたならば、 これは仏陀に対して苦痛を発信することになるということですか?
【お助けマン】 そうです! だから、悟った人の近くにいるときには、できるだけ「無念無想」を心掛けることが大事となります。
【Eさん】 分りました。これから人類の精神性が高まるにつれて、例えば、大勢が集まったときには私語を慎むようにと言うことは、 雑念を発しないようにと言うことをも意味するようになるかも知れませんね。
【お助けマン】 そうです。そのとおりです。これからの時代は、言葉を整えるだけでなく、 心をも整えることが大事となるということです。 ですから、過日、 心のコントロールについてお話しをいたしましたが、これからは、心をコントロールする訓練や研修が極めて重要になると思いますよ。
【Eさん】 はい、分りました。先回、おしゃったように「無念無想」は、すぐにできるものではないので、 まずは、自分が何を考えるかということをコントロールできないといけないということでしたね。
【お助けマン】 そうです。残念なことに、ほとんどの人たちは、自分が考えることをコントロールできていません。 それは、あたかも暴れ馬に乗っているようなもので、自分の馬(心)でありながら統御できていないのです。 ですから、まずは自分の心をどうすれば統御できるのか、これを学ぶ必要があるのです。
【Eさん】 分りました。このことは非常に重要でありながら、学校では教えてもらえません。 これは、もう幸福の科学の研修に参加して学ぶしかないようですね。
【お助けマン】 そうです。でも、今、この心の教えが、この地上にあるということは、人類に対する福音です。 心の奴隷になるのではなく、心の主(あるじ)になることこそが、真の人間としてのあり方だと、私は思います。
【Eさん】 はい、分りました。 今日は、「無念無想」の難しさと、その重要性の意味を教えていただきありがとうございました。 「目は口ほどにものを言う」ということわざがありましたが、これからは、「心は口ほどにものを言う」ということわざに言い換えないといけないですね。 改めて心の意味が分ったように思います。
では、今日はこれにて失礼いたします。ありがとうございました。
と言ってEさんは帰られました。今日は、Eさんが言った「心は口ほどにものを言う」という言葉は、悟りの言葉だと思いました。 皆の心が平安になって、世の中が平穏になるためにも、悪しきことを思わない人たちが多く出てくることを望むばかりです。
主エル・カンターレに感謝。
(終わり)