「考えることができるだけでも大したもの」の意味
入会して半年のEさんが、 『仏陀の証明』の中の第一章 「釈迦の八正道」に書かれた「正思」の解説の意味について聞きに来られました。
以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。
【Eさん】 先回の「肉体があるからこそ業(カルマ)が作られる」では、この世が創られた意味がまた分りました。 本当に、どうもありがとうございました。
ところで、書籍の記述内容の質問ですが、 『仏陀の証明』 の30ページの「正思」の解説の中で、「考える」ことについて次のように説かれていました。
と、ありました。
曰く、考えることができるだけでも大したものであり、世の中には考えることができない人が大勢いるとあって、不思議に思ったのです。
【お助けマン】 私も読みましたが、別に不思議に思わなかったのですが、どのところですか?
【Eさん】 はい、考えることができない人が大勢いるというところです。
もし、考えられなくなったらそれこそ生きてはいけませんので、皆、よく考えて生きていると私は思うのです。
【お助けマン】 例えば、どういうことですか?
【Eさん】 例えば、お腹がすいたら、何を食べようかと考えますし、夕方になると今日は、どんなおかずにしようかと考えていますし、 寒くなったら何を着ようかと考えています。ですから、それこそ、いつも考えているように私は思うのです。
【お助けマン】 確かに考えていることには間違いはありませんが、『仏陀の証明』の中で説かれている「考える」ということと同じではないように私は思います。
【Eさん】 えっ、同じでないとは、それはどういうことですか?
【お助けマン】 あなたが考えているということは、何か自分や環境の変化があって、それに「反応」しているということではありませんか? 従って、自分で自発的に考えていることではないのではないでしょうか。
【Eさん】 「反応」している? と、いいますと?
【お助けマン】 つまり、お腹がすいたという出来事があって、それに対して、 どうするのか反応しているのです。 確かに何を食べようかと考えてはいますが、その考えるきっかけが体の感覚に対する刺激によって為されているのです。 また同様に、夕方になった、夕飯のおかずは何にしようかと考えていることも同じです。 夕方になったという時間の変化によって、夕飯のおかずを何にするかという思考が引き起されているのです。 つまり、これは考えているのではなく、「考えさせられている」ことと同じなのです。 ですから、『仏陀の証明』で言うところの「考える」ということは、 環境の変化や何かのきっかけによって引き起こされて「考える」と言うことではないのです。
【Eさん】 えー! 何もきっかけがなくて「考える」のですか? そんなことは、普段はしていませんよ!
【お助けマン】 だから大勢の人は、考えていないと言うのです。 ですから、考えられるだけでも大したものだと説かれているのです。
【Eさん】 そうだったのですか。 じゃ、逆に聞きますが、この書籍で言うところの考えるということは、一体どういうことを指すのですか?
【お助けマン】 はい、それは外からの刺激やきっかけによるものではなく、「自発的」になされるものを言います。 ですから、例えば、人生の意義を考えたり、ものごとの本質を考えたり、あるいは、どうすれば皆が幸福になるのかを考えるようなことです。 また、一日の自分の言動を振り返ることも、この「考える」ことの範疇に入るでしょう。
【Eさん】 いや、それは、実に哲学的ですよね。
【お助けマン】 そうです。ただ哲学的と言ってしまうと逆に難しくなりますので、もっと楽に考えて、 誰から強制されることでなく、自分一人になって静かに考えることであると思えばいいのではないでしょうか。
【Eさん】 ああ、少し分ってきたように思います。
昔、学生時代に京都の竜安寺の縁側で、1時間も2時間も石庭に見とれて色々と考えていたことがありましたが、 あのときのことが「考える」ことだったように思います。
そのあと、学校を卒業してから会社に勤め、そして、今の主人と結婚し子供ができてから、忙しくて時間がなく、一人静かに考えるということはあまりなかったように思います。
【お助けマン】 いや時間がなかっただけではないと思いますよ。もちろん、家事だ、子育てだ、ということで忙しいことは分ります。 しかしながら、1日のうちで、15分や30分を取れないことはなかったと思います。 子供が寝たときに、一人静かに考えることも出来たのではないでしょうか。 その本当の理由は、一人静かに考えることに対する価値観がなかったということだと思いますよ。
【Eさん】 あー、分りました。確かに時間がないというのは言い訳でした。 要は、一人静かに考えるということの価値が分らず、またその気もなかったのだと思います。
【お助けマン】 そうです。ですから本当の意味で「考える」ということをするのだという明確な意思を持って考えることが大事なのです。
もし、その気がなければ、1年も2年も、いや、10年20年もの間、何も考えなかったということもあり得るのです。
【Eさん】 分りました。もし、「考える」ということの本当の意味を知らなかったならば、 それこそ一生、何も考えずに終わることもあり得ますよね! これは、本当に恐ろしいことです。 私も危ないところでした。一生、考えずに終わるところでした。
【お助けマン】 ああ、間に合って良かったですね。 世に中には、まだまだ考えられない人が大勢いますので、是非とも、この真実を教えてあげて下さい。
【Eさん】 はい、分りました。今日も、いいお話しをいただきありがとうございました。 これからは、一日で10分でも15分でも、考えることをしたいと思います。
では、今日はこれで失礼いたします。ありがとうございました。
と言ってEさんは帰られました。今日は、お助けマンの解説で、「考える」ということと、「反応」することは違うということが分ったように思います。 私の例で恐縮ですが、もし、どう考えればいいか分らないならば、一日の終わりに、たとえ10分でも15分でもいいので、 今日一日、自分の語ったこと、為したこと、思ったことを振り返る時間を持てば、実によく考えることができるようになるのではないかと思います。 実は、これは仏陀が説く「反省」そのものですが・・・。
主エル・カンターレに感謝。
(終わり)