『太陽の法』の太郎とスズメの話とは?

入会して半年のEさんが、 『太陽の法』の第三章「愛の大河」の中に書かれた「太郎とスズメの話」について聞きに来られました。
以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回は、「亀と漁師のたとえ話」について教えていただきありがとうございました。 お陰さまで、また新たな発見をさせていただきました。
そう言えば、『太陽の法』にもうひとつのたとえ話しがありました。実は、第三章「愛の大河」の中の「愛の神秘」の説明の中に、 「太郎とスズメの話」があったのですが覚えておられますか?

【お助けマン】 よく覚えていますよ。
ちょっと待って下さい。本棚から『太陽の法』を取ってきますので・・・。あー、ありました。少し読んでみますね。

むかし、あるところにひとりの老人が居て、そこに、わんぱくの太郎がよく遊びに来ていました。 ある日、その太郎が遊んでいると3羽のスズメが飛んできて、話を始めたのです。
一羽目のスズメは、「この世でいちばんすばらしいものは、お天道様だ。お天道様がいつも大空に輝いているから、 世界が色とりどりに見えるし、穀物も実るのだ。だから、私たちスズメは、いつもお天道様に感謝している。 ところが、お天道様がいつもニコニコ照らしているものだから、人間たちはいい気になってしたい放題だ。 けんかはするし、悪口は言いあう。戦争などやっているバカもいる。」と・・・。
それを聞いていた二羽目のスズメは、「いや、この世でいちばんすばらしいものは、やはり水だよ。 水がなかったら、どんな生きものだって生きていけないじゃないか。
ぼくたちスズメは、水に感謝して仲むつまじく生きているけれども、 おろかな人間は、水などタダだと思って軽んじていて、役に立たない宝石とかのために汗水たらして働いている。 こっけい千万だ。」と・・・。
つぎに、三羽目のスズメが、語りはじめました。「いちばんすばらしいものは、やはり空気だ。 空気がなければ、ものの1分もたたないうちに死んでしまう。おれたちスズメは、そのありがたさに感謝している。 それにひきかえ、人間とは、なんと傲慢(ごうまん)なんだろう。飛行機で空を飛べるのは、自分たちの知恵のおかげだと思っている。 おれたちは、空気に感謝しているが、人間たちが空気に感謝しているのは見たことがない」と・・・。
それを聞いた太郎は、悲しくなり考え込んでしまいました。人間とは、何とおろかで、バカな生きものなんだろう。 スズメ以下ではないか、と。 それを老人に訴えたところ、老人は、 「太郎よ、よく悟ったね。人間とは、いちばんすばらしいものさえ見失っているおろかな生きものなんだよ。 そのおろかな生きものであっても、お互いに愛しあうことによって、その罪を許されているんだよ。」と言った。

こういう物語だったですよね。

【Eさん】 そうです! そのとおりです。
その中で、

「おろかな生きものであっても、お互いに愛しあうことによって、その罪を許されている。」

というところが分からないのです。

【お助けマン】 愛することによって、なぜ罪が許されるのかということですよね。

【Eさん】 そうです。ただ、たとえ話しとしては非常に分りやすかったのですが・・・。

【お助けマン】 実は、私は、これは人間と動物の愛の違いに関係があるのではないかと思っています。

【Eさん】 と、言いますと?

【お助けマン】 はい、人間と動物の違いには色々とありますが、やはり愛のところも大きいと思います。 まず、動物の本能について考えてみたいと思います。
例えば、百獣の王と言われているライオンを見ますと、非常に獰猛(どうもう)で、敵なしと言われています。 その証拠に、獲物をあの強さで仕留めて食べてしまいます。
しかしながら、その獰猛なライオンであっても満腹のときは、たとえ、おいしい獲物が前を通っても襲わないと言われています。 それは、ライオンや動物がそれほど強欲ではないということを意味しているのではないでしょうか。つまり、真理的に言えば、それほど「奪う愛」は強くないということなのです。
一方、人間はどうでしょうか。お金、株券、土地、そして異性など、いくら持っていたとしてもさらに求めます。 かつて、釈尊は、こう言いました。「人間の欲には際限がないのだ。あのヒマラヤの山を金にして与えても、 やがて、もう一つくれと必ず言うであろう」いう意味の言葉が残っています。
つまり、人間は動物と違って、そのままでは足ることを知らない生き物であることを意味しています。 ですから、たとえ自分が満腹で金持ちであっても、さらに欲しがるという性質を持っています。 さらに、それには際限がないのです。その意味では、人間は、動物よりも「おろか」であると言えます。それは、太郎が感じたとおりなのです。
でも、神様は、人間に際限のない欲を与えられましたが、その反対に他人を愛すること、 つまり、「愛を与える」能力についても際限なく与えられたということなのです。 動物は、愛を際限なく与えるという能力はありません。動物が食べ物の寄付をしたということも聞きませんし、多くの仲間を高度に幸せにしたということも聞きません(しかしボスはいるが)。
従って、神様は、人間に愛を奪うことの自由と、それと同様に愛を与えることの自由を、最大限にお与えになったということではないでしょうか。

【Eさん】 なるほど、その「愛を奪う自由性」と「愛を与える自由性」の両方を持っているのが人間ということですね。

【お助けマン】 そうです。ですから、その愛をどのように使うかということについては、その人の自由なのです。 愛を大いに奪えば「悪魔」になるし、愛を大いに与えれば「天使」にもなれるということです。しかも、その選択は各自に任されているということなのです。
ですから、人生の途上で、あなたは、どちらを選択しますかと言うことが問われているのではないかと思うのです。

【Eさん】 あっ、そうか。悪魔になるのも天使になるのもその人の自由なのですね!

【お助けマン】 動物は、悪魔にも高度な天使にもなれません。 しかしながら、人間は、どちらにもなれる自由が与えられているということです。 つまり、たとえ、他人から愛を奪って愚かなことをしたとしても、それ以上に愛を与えれば、その愛を奪った罪は許されるということをも意味しています。 それができるのが、実は、人間だということなのです。

【Eさん】 びっくりしました。太郎とスズメの話は、それだけの意味が含まれていたのですか!  やはり、真理の書籍は本当に深く読み込まないといけないですね。
いやー、今日も、いいことを教えていただきました。私も動物にならないように、愛を与える自由性を最大限に活かして、 多くの人々に真理をお伝えしたいと思います。 今日も、本当にありがとうございました。それでは、これで失礼いたします。

と言ってEさんは帰られました。神様は、動物と違って人間に対しては、 愛を奪ったり与えたりする能力を制限されませんでした。
人間に、それだけの自由が与えられたという意味では、一方において危険な面もありますが、 愛を与えることによって、天使になる人を多く創ることをこそ、良しとされたのではないでしょうか。 そして、今、主が肉体を持ってこの地上に降りられているということは、 人類に対する主の最大の愛の顕れに違いないと強く思った次第です。

改めて、主エル・カンターレに感謝。

(終わり)