『太陽の法』の亀と漁師のたとえ話とは?

入会して半年のEさんが、 『太陽の法』の第一章「有限と無限」の中に書かれた「亀と漁師のたとえ話」について聞きに来られました。
以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回は、心のコントロールについて教えていただきありがとうございました。
実は、今日お伺いしたのは、『太陽の法』の中にある「亀と漁師のたとえ話」が、今ひとつ分らないので聞きに来たのです。

【お助けマン】 ああ、亀と漁師の話ですね。分りやすいたとえだと思いましたが・・・。
あわれな亀が居て、小さな島の砂浜を地の果てまで探検しようとして歩きはじめたが、島の周りを単にぐるぐると回っただけで、やがて疲れて死んでしまったと。 そこへ漁師がやって来て、その亀を島の反対側まで運ぶのにわずか10分で済んだという話しだったですね。

【Eさん】 そうなのです。亀はもちろん人間ではありませんので、島の地図を持っているわけもなく、 それは当たり前のような気がして、この物語が言いたいことが今ひとつ分らなかったのです。

【お助けマン】 そうだったのですか。では、亀と漁師とはどこが違うと思いますか?

【Eさん】 はい、亀は、地面を這って歩くだけなので、島の全体の形や大きさを知ることができないということと、 一方、漁師は亀と違って島の全てについて知ることができたということだと思います。

【お助けマン】 はい、そうです。でも、それだけだったら亀と知性を持った人間とは違うということだけで、 Eさんがおっしゃるように、当たり前のことになってしまいます。

【Eさん】 そうなのです。ですから、この物語は、単に亀と人間の違いを言いたいということではないと思うのです。

【お助けマン】 いいところに気が付かれましたね。
そのとおりで、単なる亀と人間の違いの物語ではありません。 亀と漁師との違いを人間同士にあてはめて、同じ人間でも違いがあることをたとえ話しを使って訴えかけているのではないかと思います。 今、『太陽の法』を持ってきましたので、その部分を読んでみます。

有限と無限について考えるときに、私は、いつも、この亀と漁師の話を思い出さずにはいられません。 亀と漁師のちがいは、どこにあるのでしょうか。歩く速さ。もちろん、それもあります。 体の大きさ。もちろん、それもあります。あるいは、経験量の差。そういうこともいえます。
しかし、亀と漁師の根本的な差異は、認識力の差にあったといえるのではないでしょうか。 亀の目的、努力、そして熱意は、みあげたものですが、その結末にペーソスがただようのは、なぜでしょうか。 やはり、そこには、わかるものとわからないものとの差、知ることができるものと知ることができないものとの差、 そういったものがはっきりとあるように思います。

と、あります。

【Eさん】 やっぱりそうですよね。認識力ですよね。

【お助けマン】 じゃ、この認識力の差を、同じ人間同士に当てはめてみるとどうなるのか。 それも本文に書かれています。

ところで、この亀と漁師を唯物論者と真理体得者といいかえてみたらどうでしょう。 「私は亀ではない」と、怒りはじめる方もきっといるはずです。
人生は、六十年、七十年の有限なもので、死ねば何もかもが終わりだと思っている人。 自分の目に見える部分だけがすべての世界で、五官を超えた世界などはまったく信じないといってはばからない人。 こういう人は、結局、世界探検に出かけた亀のおように、自分の足跡だけをたよりに、 同じ小さな世界をぐるぐると堂々めぐりしているにすぎないのです。

と、説かれています。
つまり、亀が唯物論者であり、漁師が真理体得者でありその差は非常に大きいということが示されているのです。

【Eさん】 うーん、では、なぜ亀が唯物論者で漁師が真理体得者になるのでしょうか。 もう少し説明していただけませんか?

【お助けマン】 はい、まず唯物論者は、世界の全体像が見えていません。 ここで言う世界とは、この世の世界だけのことではなく、あの世の霊界も含んだ世界のことを言います。 従って、島の全体像を知らなかった亀と同じにたとえられるのです。
ですから、亀は島を探検するために浜辺を歩くのではなく、本当は島の上を通って横断すれば良かったのです。 しかしながら、島の全体像を知らなかったがために、島の周りを堂々めぐりをするしかなかったということなのです。
ですから、唯物論者は、このあわれな亀が島を知らなかったように、あの世も含めた世界を知らないということです。 だから、人間は死んだら何もかも終わりだと思ってしまうのです。
一方、真理体得者は、あの世の世界を知っていますので、死んでも魂は残り、心と経験はあの世に持って帰れることを知っているので、 それを大事にし、この世的なるもの、例えば、肉体やお金、そして、土地などに執着することはないのです。

【Eさん】 と言うことは、亀と漁師のたとえで学ぶことは、 どれほどの世界観を持っているかということで理解すればいいのでしょうか。

【お助けマン】 はい、そのとおりです。
それを「悟り」と言うこともできると思います。 また、さらに、その認識力の差は「次元の差」と言ってもいいと思います。

【Eさん】 えっ、その「次元の差」とは何ですか?

【お助けマン】 例えば、3次元と4次元とは違います。 3次元というのは、縦・横・高さで認識される世界です。その世界では皆同じ時間に生きており、 自分だけ別の時間に生きることができない世界です。
それが4次元となりますと、3次元に「時間」の要素が加わり、その時間を選んだり、コントロールすることができる世界です。

【Eさん】 分ります。タイムマシーンで別の時代に行けるような人のことですね。

【お助けマン】 そうです。亀をこの世の人間とすれば、漁師は、さながらタイムマシーンに乗って別の時代や天体に行ける宇宙人のようになるということでしょうね。

【Eさん】 いや、この差は大きいですね。次元を超えたならば、それほどの差があるということですか・・・。

【お助けマン】 そうです。ですから、自分がどの次元の悟りを持っているかということは非常に大きいことなのです。 3次元と4次元でそれほどの差がありますから。もし、3次元と5次元、3次元と6次元となりますと、 それは果てしない差となることと思います。
従って、この亀と漁師の話は、悟りの差による認識の差がどれほど大きいかをも物語っているのです。 もう次元が違えば取り付く島がないというほどの隔たりができるということです。 ですから、この世の人間が、あの世の人間と話しをするとなるとそれは非常に高い悟りが必要となります。
従って、この悟りを得て高い次元の認識力を得るということは、本当に何物にも代えがたい価値のあることだと言えます。 昔から、命を賭けて東シナ海を渡って悟りを求めたということも分るのではないでしょうか。 そして、今、まさにその悟りが、この日本において再誕の仏陀のもとで得ることができると言う非常に稀有なる時代にあるということです。

【Eさん】 いや、これは本当にありがたいことなのですね。
命よりも大切な悟りが今、本当に身近に得られる時代にあるということですね。 だから、現代が「奇跡の時代」とも言われているのですね。 今日も、いいことを教えていただきありがとうございました。 では、これで失礼いたします。

と言ってEさんは帰られました。大川総裁は、亀と漁師について、「わかるものとわからないものとの差、知ることができるものと知ることができないものとの差」 とおっしゃいました。
幸福の科学は、今、この世的には非常にチャレンジングな場に置かれているのではないかと思います。 選挙の結果や、教祖の離婚や再婚など色々とこの世に現象として現れていますが、これらを亀の目で見るのではなく、 あの世も理解できる漁師、いや、さらには真理体得者から見ればどのように見えるのか、それが、今、問われているのではないかと思います。
この世的に見える範囲で判断することは簡単です。それは、少し"常識"があれば出来ることです。 しかしながら、そのようなマスコミレベルの表層的な判断をするのではなく、あの世も含めたトータルな真理的世界観での判断こそが、 今、試されているのではないでしょうか。

エル・カンターレに感謝。

(終わり)