映画 『神秘の法』 での長老の言葉 「降魔の法輪を転じる」

8月18日に、「悪霊」と「悪魔」の違いを聞きに来られた女性信者のGさんが、 映画『神秘の法』の中での長老の言葉について聞きに来られました。
以下は、そのときのGさんとの会話の内容です。

【Gさん】 またやって参りました。先回、お伺いしてから2ヶ月が経ち、大変ご無沙汰していました。

【お助けマン】 いやいや、また来て頂いて嬉しいです。いつでも大歓迎ですよ。
ところで、今日は、どういうことでおいでになられたのですか?

【Gさん】 はい、実は、今、『神秘の法』の映画が上映されているので、私も見に行って参りました。 映画自体は、アニメーションなのですが、何か今までのアニメーションと違って、非常にリアルで迫力があり感動しました。
それで、お助けマンさんが『仏陀の証明』でいつも引き合いに出されていたアジャンター石窟寺院の場面もあって、 今何が起きているのか、そして、これからどうなるのか、非常によく分かりました。

【お助けマン】 私も映画を観てびっくりしたのですよ。 この映画でもアジャンター石窟寺院が出て来るということは、この寺院が、2500年後に東の国に仏陀が再誕することを証明する非常に重要な地ということだと思います。

【Gさん】 それで映画のなかで、長老を筆頭にしてインドのお坊さんが日本に来て、獅子丸翔(ししまるしょう)を助けるシーンがあったじゃないですか。
そのシーンの中で、金属製の壺から2500年前の古文書を取り出して、獅子丸翔が再誕の仏陀であることを伝えましたよね。

【お助けマン】 そうそう、そうでしたね。ヘルメス・ウイングスのジェネラルが撃たれたあとなのでよく覚えています。そのとき、獅子丸翔は、突然に仏陀の生まれ変わりであると言われてびっくりしていましたね。

【Gさん】 そのとき、インドの長老お坊さんが予言の言葉を言ったのですが、その中に仏陀が再誕し、「降魔の法輪を転ずる」という言葉がありました。 2500年前に釈尊が法をを説かれて、その法をあまねく広く人々にお伝えになられました。そのことを、「法輪を転じる」と言いますが、その長老は、再誕の仏陀が、「降魔の法輪を転じる」と言ったのです。
なぜ、長老がそのように言ったのか、そして、それは、お釈迦さまの時代とどう違うのか、それをお聞きしょうと思ってきたのです。

【お助けマン】 そうだったのですか。実は、私もその長老の言葉を聞いて、単なる仏陀の再誕ではないと思っていたところでした。

【Gさん】 えっ、お助けマンさんもですか。それじゃ私だけではなかったのですね。

【お助けマン】 そうですよ。おそらく「降魔の法輪を転じる」という言葉は、非常に重みのある言葉だと思います。
つまり、今世、仏陀が再誕し、新しい法を説いておられるわけですが、それは単に法を説いて伝えられるだけではないと思います。
『神秘の法』の映画に象徴されるように、法を伝えると同時に、悪なる存在との戦いもあるわけです。その悪とは、帝国主義的な国であったり、 あるいは、悪い宇宙人であったり、また、転落して仏敵になった輩です。ですから、法輪を転じるだけではなく、その法輪には戦車の車輪のように戦いも含まれているということだと思うのです。
さらに、大川総裁は、2500年前に釈尊としてインドで法を説かれたわけですが、今世は、魂の本体である本仏として再誕されているわけですから、 とても2500年前と全く同じことをされるはずはないと思うのです。当然、2500年前よりもスケールアップした活動をされるはずです。

【Gさん】 なるほどね。だから「法輪」に「降魔の」という言葉が加わったのですね。

【お助けマン】 そうだと思います。さらに踏み込んで言わせていただくなら、2500年前に仏陀の法を勉強した仏弟子たちがまた現代に生まれ変わっているのですが、 皆、法を勉強したり修行することは好きなのですが、戦うことは苦手なのです。だって仏教とは不戦の教えだと言われているぐらいですから・・・。
ですから、再誕の仏陀である大川総裁は、そのような仏弟子に対して新たなる修行の課題を与えられたのではないかと思います。

【Gさん】 そう言えば、映画の中で、「魔もまた競い立つ」と言う言葉がありましたが、この時代は、やはり魔の活動も活発化しているということでしょうか。

【お助けマン】 そのとおりです。幸福の科学は、過去にフライデー事件があったり、邪教との戦いがあり、また、最近では劣悪週刊誌との戦いなどもあります。
そのように、多くの魔が競い立ち、そして、その戦いも激烈を極めていることが、かえって、大川総裁が仏陀でありエル・カンターレであることの証明となっているのです。

【Gさん】 だから、魔の攻撃も激しさを増しているのですね。

【お助けマン】 そうです。それともう一点大事なことがあります。戦うということは、「争」なので「悪」だと平面的に考えてしまうところがありますが、 実は、これも「愛の発展段階」と関連し、人々を幸せにするという愛のための「戦い」でもあるのです。 もし、戦うことを避けて悪の活動を許してしまうなら、そこには冷酷さしかありません。自分さえ良ければいいというエゴイスト的な心です。
従って、多くの人々の幸福のために悪と戦うということは、これは、正義だし、また愛でもあるということなのです。 つまり、その愛は、立体的で悪を押し止める「教導の怒り」や「空心の怒り」という形でもって現れるのです。 しかも、非常に行動的な愛ということになります。映画では、獅子丸翔の「何もしなければ、何も変わらない」という言葉に如実に表されています。

【Gさん】 あっ、そういうことですか。戦うことは争いであり、単純に悪だと思ってしまうところがありますが、 実は、それは、悪どころか愛の顕れであると・・・。
だから、今、ここを勉強しているのですね。よく分りました。

【お助けマン】 よく気がつかれましたね。映画の中の最後のシーンで、赤黒い雲がどんどん晴れていき、また、魔の手が消えていったように、 これからこの映画と同じことが起きると思います。
すなわち、魔との戦いを通してこの世が浄化され、また、この世の浄化によってあの世も浄化される、これが、これから起きることではないかと思います。

【Gさん】 よーく、分かりました。
どちらかと言えば、戦うことを避ける傾向が強い仏弟子に対して、大川総裁は、 「戦え、それも正義と愛のために」とおっしゃっているように思いました。私も、どちらかと言えば、争いごとを避けるほうですが、 自分だけ良ければいいという心に打ち克って、多くの人々の幸福のために、悪と戦っていきたいと思います。
今日も教えていただきありがとうございました。それでは、今日はこれで帰ります。

と言ってGさんは帰られました。そう言えば、幸福の科学には、「光の天使」と「光の戦士」という言葉があります。 当初は、「光の戦士」という言葉に違和感を感じる人たちが多かったように思います。 「光の天使」と言われると嬉しいのですが、「光の戦士」と言われると、しっくり来ないという人がいたように思います。特に女性に多かったように思います。
しかしながら、「光の天使」は、「光の戦士」を通さずしてなれることはないと、今、はっきりと分りました。つまり、悪に対しては行動が不可欠であり、 その行動は愛の表れであるからです。そして、その愛が、「光の天使」を生み出す基となるものだと強く思わせて頂きました。
エル・カンターレに感謝。

(終わり)