『仏陀からエル・カンターレへ』(その10) 主の本当の姿

 

入会間もないEさんが、大川総裁が再誕の仏陀であり、かつ、エル・カンターレであることを教えから学びたいと言って来られました。
今回は、『仏陀からエル・カンターレへ』の第10回目で、このシリーズ最終回の「主の本当の姿」を学びます。
以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回の「愛の復活」は、単なる愛の復活でないことがよく分りました。
エル・カンターレであるからこそ、愛の復活と、その愛にも発展段階があるとされ、キリスト教と仏教との橋渡しをされたということですね。
それで、次は何ですか?

【お助けマン】 このシリーズ最終回は、「主の本当の姿」を学びます。
主は、今回の降臨でエル・カンターレと呼ばれているわけですが、地上においては大川隆法というお名前にて活動されています。 そこで、今回は、主であるエル・カンターレの本当の姿がどうであるのか、これを学びたいと思います。

【Eさん】 はい、分りました。私は、大川総裁のお姿は何度もビデオでも観ているし、また先回、埼玉スーパアリーナでのご生誕際で直接拝見いたしました。
そのお姿が本当の姿でしょ。

【お助けマン】 もちろん、肉眼で見た大川総裁の姿が間違っていると言うわけではありません。 しかしながら、現在、観ている姿と、後世において感じられる姿が同じであるのか、ここに違いがあると言わざるを得ないのです。

【Eさん】 姿が違う? 今世は、写真もビデオも後世にずっと残っていくと聞いていますので、それを後世の人たちが見れば、間違うことはないと思うのですが・・・・。

【お助けマン】 そう思うでしょ。人間釈迦の像と奈良の大仏と、どちらが真実の姿をあらわしているかと言えば、実は、奈良の大仏なのです。 もちろん、それだけ大きい肉体の巨人が存在するわけではありませんが、真実の姿から言えば、それに近いということなのです。 そこで、そのところを述べられているところがありますので紹介したいと思います。 会内経典の『エル・カンターレ信仰とは何か』の18ページです。そこを朗読いたします。

釈迦も、生前には「人間・釈迦」の部分が確かにあったでしょうが、時代を下るにつれて、「人間・釈迦」ならぬ、 「久遠実成の仏陀」としての信仰が立っていったと思われます。
したがって、「今、地上に下りている大川隆法を通じて、みなさんが現在進行形で感じているエル・カンターレが、 本当のエル・カンターレであるかどうか」ということには、まだ疑問とする余地はあるのです。
みなさんは、人間としての属性を持ったエル・カンターレを、ちょうど3D眼鏡をかけて見ているかのような状況にあります。 しかし、後世の人たちから見たエル・カンターレは、みなさんが見ているエル・カンターレとは、おそらく違ったものになるであろうと想像されます。
そして、「どちらが本当であるか」ということであれば、おそらく、後世の人が見ているエル・カンターレ像が、 本当のエル・カンターレに近いであろうと感じられるのです。

と、述べられています。つまり、肉眼で見ている大川総裁の姿は、本当のエル・カンターレの姿から言えば、違っていると考えたほうがいいということなのです。

【Eさん】 えっ! 目に映った映像が違うということですか?

【お助けマン】 そうではありません。現実の光線が目に入って像を作っているということでは間違いはありません。 しかしながら、それは真実ではないということなのです。だから、皆、つまずくのです。

【Eさん】 何となく分るような気がします。かつて水戸黄門というテレビドラマがありましたが、そのドラマの中で、黄門さまが、好おじいさんの姿で悪代官の前に現れたとき、 悪代官はご老公とは知らずに、悪を犯し続けるというストーリがあったように思います。 しかしながら、葵のご紋の印籠が出されて水戸のご老公さまだと分ったとき、悪代官がひれ伏して観念するという場面がありました。 まさしく、そのドラマ似ていますね。ご老公さまが着ていた商人の着物で判断してしまったということですよね。

【お助けマン】 いいたとえですね。私のほうが勉強になりました。本当に水戸黄門のドラマのようなものです。 そこのところについて、さらに詳しく述べられていますので、そこを朗読いたします。

この世においては、いろいろな迷わし、目の錯覚、三次元的な束縛が数多く、それに引っ張られることがあります。 同じ時代を生きている人間に対しては、自分の眼を通して見たものを信じることが多いと思います。
キリスト教においても、「存命中のイエスを見た弟子たちが信じていたイエス」と、「二千年後のキリスト教徒が信じているイエス」 とでは、おそらく違うであろうと思われます。
イエス在世中の弟子たちが見ていたイエス像は、自分たちと同じように、迫害を受け、その日の糧や、その日の宿を探すことにも苦しみ、 最後には裏切られて、民衆に石つぶてを投げられ、ローマ兵に引きずられて、十字架に架かり、強盗殺人犯と一緒に処刑されたイエスです。
それが人間としてのイエス像であったでしょう。そのため、それを見ていた人のなかには、それで躓(つまず)いた人も数多くいたであろうと思います。
---中略---
私の場合も、残念ながら、同時代に生きている人たちには、やはり、百分の一ぐらいの姿にしか見えないことが多いであろうと思われます。
したがって、「意外に、日本にいる人々よりも、地球の裏側であるブラジルで信仰している人々や、インド、 アフリカの地で信仰している人々のエル・カンターレ像のほうが正しいかもしれない」ということは、知っておいたほうがよいでしょう。
なぜかというと、人間には、どうしても、自分に引き比べて物事を考える傾向があるからです。私が説いている教えのなかにある普遍的なるものを、 同時代において、同時期において、つかみ取ることができるならば、その人は、そうとう優れた人だろうと思います。 しかし、現実には、なかなか、そうはいかないものなのです。

とあります。どうでしょうか、これを聞きますと、何か思い当たるところがあるのではないでしょうか。

【Eさん】 いやー、そのとおりですよ! ちゃんとおっしゃっているじゃないですか! ますます勉強になります。

【お助けマン】 だから、大事なことは、自分がどちら側の人間になるかということなのです。 イエスさまに石を投げたほうの人間になるのか、それとも、イエスさまをどこまでの信じる人間となるのかです。 時代が経てば分ることなのですが、その時点で分ることが大事なのです。

【Eさん】 分りました。イエスさまの日常の苦労されている姿だけをみて、 イエスさまの本当の姿が見えなくなったのですね。

【お助けマン】 そうです。ですから、これは魂の試しでもあるのです。
救世主だって肉体に宿れば、肉体を維持するために食事もしますし、また、生理的な現象に逆らうこともできません。これも法則だからです。 だからと言って、救世主も凡人も同じではないかと言ってしまう人が後を絶たないということなのです。

【Eさん】 自分も注意しないといけないと思いました。言ってもらってありがたいです。

【お助けマン】 そうなのです。肉体に宿っておられるということは、 むしろ、普通の人たちと変わらずに生きようとされているということなのです。それでもって、霊的な姿まで肉体の姿と同じだと思ってしまってはいけないのです。 でも、結局は、これも悟りなのです。これが分らないということは、悟っていないということなのです。
大川総裁が、「人間には、どうしても、自分に引き比べて物事を考える傾向がある」とおしゃっていますが、本当にそのとおりなのです。 人間は、どうしても自分の考えていることが常に正しいと自己中心的に考えてしまいます。他の考え方もあることを、どうしても認めたくないものなのです。

【Eさん】 いやー、これは非常に重要な論点ですね。
視点が自分にあるか、あるいは、他にあるのかだけの違いなのですが、これは、天動説と地動説ぐらいに結果が違ってくるのですね。

【お助けマン】 そうです。核心のところをよく理解されましたね。ここが信仰心のところだと思います。 常に自分に視点がある人は、まず、自分の立場から利用できるような教えがあるかを見て、あればつまみ食いをしていいとこ取りをしたり、 あるいは、自分の都合のいいように解釈してしまうのです。 さも信じているように見えるのですが、いくら学んでも自己中心的では意味がないのです。
一方、信仰心のある人は、常に、神である主の立場で考えます。もし、主の教えと自分の考えとに相違があったならば、 「自分は神から見れば、まだまだ未熟なのだ。だから、もし主の教えで分らないことがあっても、 素直に主のお考えに合わせて行こう」と思うのです。信仰心のない人には、これができないのです。 そして、あげくのはてに転落してしまう人まで出てくることになるのです。

【Eさん】 いやー、今日は、このシリーズの最終回ですが、核心的なお話しをいただきました。 大川総裁を見るときには、方便、あるいは手段としての肉体の姿を見るのではなく、大川総裁が出された法を見て、 それが本来のお姿であることを認識することが大事であることが分りました。確かこのことを、「法身」(参考1)と言われましたよね。
もし、私の近くで、肉体にとらわれて大川総裁を見る人が居たならば、今日の話しを是非したいと思います。 今日は、いい話しを本当にありがとうございました。それでは、今日はこれで帰ります。

と言ってEさんは帰られました。「正法が説かれるときに、魔もまた競い立つ」と言われますが、魔の攻撃は、真実の信仰心を持っている人に対して為すことはできません。 なぜなら、その攻撃は、信仰心によってつながっている主に対する攻撃となり、それには、全く勝目がないからです。
一方、先ほど言った自分に視点があって自己中心的な人は、視点が自分にあるということによって、ある意味で孤立していることになり、 魔からの攻撃を受けてしまうことになります。ですから、「自分が自分がという我」を取り去ることは、一見、自分が無くなってしまうように思えるのですが、 その反対で、主と自分とをロープで結び、結果的に自分を救うことになるのです。
ですから、最後は「信仰心」で決まるということが結論ではないでしょうか。
エル・カンターレに感謝。

『仏陀からエル・カンターレへ』(シリーズ最終回 その10)終わり。

次回も真理問答が続きます。

(参考1)「法身」とは何か
仏に三相あり(信仰と情熱』第3章「心中の悪魔と戦え」四「ミカエルの章」「仏に三相あり」参照)、つまり、仏には、法身(ほっしん)、報身(ほうしん)、応身(おうじん)があると述べられています。
以下、その部分を引用します。

 仏典の中にもありましょう。仏の本当の姿、それを「法身(ほっしん)」と言います。私の法身を見ている人は、まだいないのです。
そして、この法身がさらに姿を変えたものとしての「報身(ほうしん)」と言われるものがあります。この報身とは、本来の法身が、その姿を衆生に示すことができないがゆえに、かりに高級霊のような姿を借りて出てくることを言います。かりに如来だとか、菩薩とかいう名前で現れてくることを言います。釈迦如来であるとか、天照大神であるとか、こういう名を借りて出てくる姿を、報身(ほうしん)あるいは報身(ほうじん)と言います。
そして、さらにそうしたかたちをとった高級神霊が、地上にごくまれに肉体を持つことがあります。これを「応身(おうじん)」と言います。この地上の三次元世界に合わせて、その姿で出てきているということです。
仏に三相あり。そして、その三種類の現れ方をします。今、みなさまが見ている私は、この応身の部分です。三次元に姿形をとって出ている部分です。それは、みなさまとそう変わらないものがあります。そう変わらないように生きています。
しかし、その奥にある報身は、法身は、みなさまがたの目には見えないはずです。これが見えないからこそ、つまずくのです。

と、すでに1990年12月に、現在のまちがった元職員の姿を予言するかのように、書籍にて出版されているのです。教祖の近くに行けば行くほど、通常の私たちと変わらないように、ご飯を食べられたり、運動をされたりする姿を身近に見るがゆえに、つまずくのです。ですから、教祖の近くに居る秘書を経験した人間ほど、仏は俗人だったとか愚かなことを言って、皆から笑われてしまうのです。