『仏陀からエル・カンターレへ』(その8) 仕事能力と悟り

 

入会間もないEさんが、大川総裁が再誕の仏陀であり、かつ、エル・カンターレであることを教えから学びたいと言って来られました。
今回は、『仏陀からエル・カンターレへ』の第8回目で、「仕事能力と悟り」を学びます。
以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回の「映画『神秘の法』」の中で、私の印象に残ったところを述べましたが、獅子丸翔が言った

『何もしなければ、何も変わらない』

という言葉は、今後、ずっと歴史に残っていく名言になりそうですね。 それで次のテーマは何ですか?

【お助けマン】 はい、第八回目は、「仕事能力と悟り」です。

【Eさん】 分りました。ところで、仕事能力と悟りがテーマということですが、両者は、そもそも両立しないものではないですか。 なぜなら、昔からお寺のお坊さんは、修行のために、毎日ほとんど座禅をしているところを見ると、それほど仕事能力が高いようには見えないし、 逆に、仕事をしてバタバタしていたら悟れないのじゃないですか。

【お助けマン】 今、おっしゃったことが、従来での常識でしょうね。ですから、その解釈が一概に間違いだとは言えません。 しかしながら、本当にそれでいいのかということなのです。もし、それでいいのなら仏陀が再誕する必要はないのです。

【Eさん】 では、従来の常識とどう違うのですか?

【お助けマン】 はい、実は、経典『大悟の法』 第3章「仕事能力と悟り」に、このテーマについて述べられているところがありますので、そこを朗読させていただきます。

「仕事能力と悟り」という題で述べていきたいと思います。
なぜ、こういう題を付けたかというと、みなさんは、「仕事能力は在家の能力であり、悟りは出家の能力である」というように考え がちであり、意識は二つに分かれているように感じるからです。
これは、ある意味で、一つの逃げ場になっているのかもしれません。そのように考えることによって、仕事のできない人は、 「自分は悟りが高いのだ」と思い、悟りの低い人は、「自分は仕事ができるのだ」と思って、どちらにも逃げられるようになっている感じがします。

と、述べられています。つまり、従来では、仕事は在家の能力で、悟りは出家の能力であると二分して考えていたということです。

【Eさん】 いやー、私もそう思っていましたよ。そうじゃないんですか?

【お助けマン】 真実はそうではありません。
だって、菩薩の世界では仕事のできない人はいないと言われており、 例えば、千手観音などは仕事が出来すぎて、多くの手があるように見えるぐらいなのです。

【Eさん】 なるほどね。そう言われればそうですよね。
じゃ、仕事能力と悟りは、どのように考えていけばいいのかしら?

【お助けマン】 はい、それについては、大川総裁が、同書ではっきりと結論を述べられていますので、 そこのところを朗読いたします。

悟りを高めつつも、仕事ができる」ということが、実は多くの人々を救済することにつながるのです。 そして、多くの人々を実際に救済しえたならば、その悟りにそれだけの力があり、普遍性があり、人々を救済するに足る力があった ということを実証することになるのです。
想像してみれば分かるでしょう。仙人が山の中で独り悟りをし、木の実を食べて生きたり、逆立ちをして生活したりしていると、 みなさんは「すごい」と思うかも知れません。しかし、それは、それ以上のものではなく、人に説くべきものは何もないのです。 やはり、一人ひとりの悩みを解決していく道を示すほうが、大いなる仕事であると思います。
したがって、「仕事能力は在家的な能力であり、悟りの能力は出家の能力である」というように、安易に考える人がいるとすれば、 それは、やはり甘い考えであり、そこに逃げがあると言わざるをえないのです。

とあります。
まさしく、宗教のイノベーションです。宗教の目的とは何でしょうか。もちろん、各個人が真理を学び、自分の認識力 を上げて悟ることにあります。しかしながら、その悟りはある意味で手段であると言えるのです。 それを手段にして多くの人々を救済すること、これこそが宗教の目的であると言えます。そして、その救済は仕事能力によって大きく成し遂げられていくのです。

【Eさん】 はい、そう言えば、『仏陀の証明』(会内経典)第6章「正義の言葉『仏説・降魔経』」に、「降魔即悟り」「悟り即伝道」 とありましたよね。
悟りがゴールではなく、あくまでも中間段階だったのですね。仏法真理を伝道して、多くの人々を救済することこそが目的だったということですね。

【お助けマン】 そうです。そのとおりです!
大川総裁は、再誕の仏陀であるけれども、単なる再誕の仏陀ではなく、本仏であるエル・カンターレであることを一貫して述べてきましたが、 仕事能力と悟りの融合も、エル・カンターレであることの証明なのです。つまり、この世とあの世の両方において成功し勝利する教えを説いておられるということです。
さらに進んで言うならば、この世とあの世を創世された根本仏であるからこそ両方の世界において勝利する教えを説かれるのは当然とも言えます。

【Eさん】 分かりました。
だから、出家者には仕事能力を高める努力を促し、在家者には定期的に精舎などで仏道修行することを促しておられるのですね。

【お助けマン】 はい、そうなのです。
ですから、ありがたいことに、エル・カンターレの教え学ぶことによって、出家者は仕事能力を身に着け、 多くの人々を伝道して菩薩となり、在家者は仕事をしながら悟りを高めて菩薩になることが可能になったということなのです。 ですから、今世においては、修行という意味では出家者と在家者の差がほとんどないと言えるのではないでしょうか。したがって、出家しなければ菩薩になれないということはなく、 むしろ、在家者の中からも大量の菩薩が涌出することが予想されるのです。

【Eさん】 ありがとうございます。何か聞いていてワクワクしました。
私は、悟ることに非常にあこがれを感じていますが、今世は在家なので悟れないと思っていました。でも、むしろ、菩薩になるということでは 在家のほうが有利かも知れませんね。なぜなら、伝道も植福もたくさん出来るし、また精舎での修行もできるからです。本当にありがたい時代に生きていることを、また感じさせて頂きました。
今日もいい話しを頂きありがとうございました。

と言ってEさんは帰られました。従来では、仕事能力と悟りは両立しないということが常識であったように思います。しかしながら、エル・カンターレの教えによって 両者の融合が説かれました。それによって、出家者には仕事能力を、また、在家者には悟りを得る道が明確に示されました。 これは、宗教にとっての大きなイノベーションだし、今世に大量の菩薩が生み出される理由かも知れません。 エル・カンターレに感謝。

では、また続きます。次回は、『仏陀からエル・カンターレへ』(その9)です。

(その8 終わり)