『仏陀からエル・カンターレへ』(その6) 大悟の瞬間

 

入会間もないEさんが、大川総裁が再誕の仏陀であり、かつ、エル・カンターレであることを教えから学びたいと言って来られました。
今回は、『仏陀からエル・カンターレへ』の第6回目で、「大悟の瞬間」を学びます。
以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回の「遠心力と求心力」では、活動と修行のバランスが大切なことがよく分りました。 多くの人々を救っていけるようにするためにも、信仰心と日々の精進を忘れないようにしたいと改めて思いました。
それで次は何ですか?

【お助けマン】 はい、第六回目は、大川総裁の「大悟の瞬間」から学びたいと思います。

【Eさん】 「大悟の瞬間」とは、確か大川総裁の経典の中にあったように思うのですが、どの経典でしたっけ?

【お助けマン】 はい、法シリーズの『大悟の法』の中の第4章に、その「大悟の瞬間」があります。

【Eさん】 では、その「大悟の瞬間」と、大川総裁がエル・カンターレであることと、どう関係があるのですか?

【お助けマン】 それが大ありなのです。
『大悟の法』の「あとがき」に、各章について簡潔に紹介されていますが、第4章については、

『第4章では私自身の今回の悟りについて語った。』

と、あります。
つまり、第4章は、仏陀やヘルメス神の本体であるエル・カンターレとして悟られた大川総裁の悟りについて述べられているということなのです。

【Eさん】 なるほど。そう言われればそうですね。「今回の悟り」とは、エル・カンターレの悟り以外あり得ないですからね。

【お助けマン】 そうです。
皆、漠然とそのところを読んでいるかも知れませんが、1億5千万年間、人類が知ることができなかった秘密の内容が、いともさらりと書かれているのです。

【Eさん】 そういうことをお聞きすると、改めて読むのに非常に気合が入りますね。
それでは、大川総裁の今回の悟りであるエル・カンターレの悟りが、前回の釈尊の悟りとどう違うのかを教えてください。

【お助けマン】 いやー、私も、現在、勉強中の身なので、そんな大それたことを言うことはできませんが、 あくまでも、私個人の探求中の内容であるという前提でお話しをさせて頂きます。
まず、このシリーズ(その1)の「経典『永遠の仏陀』」で紹介しましたように、釈尊は、初期においては人々を導く目的を「人間完成」とされ、 悟りの目的も、「阿羅漢の境地」に到ることとされました。従って、修行においても肉体から来るところの「執着を去る」と言うところに重点がありました。
従って、三法印である「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」を教えの基本とし、そのための修行形態として、三学である「戒・定・慧」を推し進められたのです。 ですから、まずは、この世的なるものの「否定」が必要だったのです。
お金に執着するな、異性に執着するな、地位や名誉に執着するな、と言うように 自分の欲の原因となるこの世的なるものをまず否定されたのです。それが「一切皆空」という「空」あるいは「真空無相」という教えであったわけです。
従って、当初の仏教教団は、三衣一鉢(さんねいっぱつ)と言って、3種類の衣と托鉢に持つ鉢しか 持つことを許されなかったのです。

【Eさん】 そうですよね。それこそが仏教ですから・・・。
じゃ、今回の大川総裁の悟りは、その伝統的な仏教とはどう違うのですか?

【お助けマン】 それが、法シリーズの『大悟の法』の中の第4章「大悟の瞬間」に示されている大川総裁の悟りの内容です。その部分を朗読をさせて頂きます。206ページです。

地獄的な生き方をしていると、地獄のものたちが、すり寄ってきます。天使は天使の仲間を増やそうとしていますが、地獄界に生きているものたちも、 常に仲間を増やそうとしているのです。そして、地上世界は物質波動がかなり強いので、地獄のほうの影響を受けやすいのです。 これを悟らなければいけません。
この意味での観の転回、思いの転回をさせるために、宗教では伝統的に、物質的なものを否定したり、この世的な生き方を否定したりするのです。
まず、一喝を与えて、この世的な生活を否定します。「物質を求めてはいけない。お金を求めてはいけない。異性を求めてはいけない。 衣服を求めてはいけない。よい家を求めてはいけない。」など、いろいろな否定を説きます。
しかし、これは、否定すること自体に意味があるわけではなく、この世的な生き方に執着する心を去るために言っているのです。
この執着を去って、霊的覚醒を得たときには、「この世のなかにも、人々の生活を助け、豊かにし、心を引き上げるような、さまざまなものがある」 ということが分かってきます。
このような「否定の否定」は「単なる肯定」とは違うということを知らなければいけません。霊的な自己という視点をいったん得たうえで、 この世というものの積極的な意味を見出していく必要があるのです。
宗教においては、「食・性・眠」、つまり、食欲、性欲、睡眠欲を否定する教えが数多くあります。霊的な自覚を持つために、まず、この世的な力を否定しているのです。
しかし、それを再び百八十度、ひっくり返してみると、実は、そういうこの世的な力もまた、生きていく力であり、霊的な力であることが分かります。生命の力というものは、実は、霊的な力ときわめて共通したものなのです。これは、同じ力の裏表なのです。この世で生きていく力がなくなれば、霊的にも力は失われていきます。
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このように、根源を見てみると、生きていく力、生命のエネルギーそのものは、太陽エネルギーに根本があります。
そして、実は、この世の太陽とまったく同じものが霊界にも存在します。それは、霊太陽といわれる存在です。霊太陽は、地上で見る太陽とは少し色合い違い、やや白っぽく見えます。この霊太陽が、大宇宙の生命たちに光のエネルギーを送り込んでいるのです。
霊太陽の霊的エネルギーと、この世の太陽エネルギーとは、実は、同じエネルギーの裏表なのですこの世に物質化して現れる場合と、物質化しない場合という違いだけでエネルギーとしては同じものです

とあります。
これは、この世的な価値観を否定したあとに、この世の積極的な意味を見出すといういうことで、言わばこの世の肯定なのです。しかしながら、この肯定は単なるこの世の肯定ではありません。
さらに、続いて驚くべきことが明かされています。すなわち、霊界には霊太陽と呼ばれる太陽がありますが、実は、この霊太陽はこの世の太陽と表裏一体になっており、 同じエネルギーの裏表であることが明かされています。これは、この宇宙を作った人でなければ分らない内容が明かされているのです。

【Eさん】 なるほどね。
伝統的な宗教が、かつて人々に課して来たこの世の否定を、今度は弁証法的 に否定することが大事なのですね。つまり、立体的に考えることが大事なのですね。

【お助けマン】 そうです。
これが、幸福の科学が「先進(アドバンスト)宗教」と言える理由でもあります。要するに、私は、人類がここまで成長したと考えてもいいのではないかと思っています。続いて朗読いたします。

私は「釈尊の無我の思想は唯物的な思想ではなかった」と説明しました。肉体は、水に流れていく泥の家のように、はかないものなので、唯物的な解釈として、 「そういうものにとらわれてはいけない」という考え方もあります。ただ、この世にある存在そのものもまた、実はエネルギーの表れにしかすぎないのです。
エネルギーの本質は霊的エネルギーです。その霊的エネルギーが、粗い波動になって、この世に顕現してきたときに、物質となるのです。 家であろうと、人間の肉体であろうと、やがては朽(く)ちて土になりますが、最終的には、また霊的エネルギーに還元されるわけです。
地球には多くの生き物が生きていますが、地球が消滅したあとも、その生き物たちが地球に生きていたときの生命エネルギーそのものは、 霊界に存在しつづけ、決して消えることはないのです。これは、もう一つの「エネルギー不滅の法則」です。
多くの人間や動物たちの、かつて生きていたエネルギーや、いま生きているエネルギー、そのエネルギー自体は、この世が失われても、なくなることはなく、 存在しつづけます。
それが、霊界は広大無辺であって、また、多くの生命をはぐくんでいる理由でもあるのです。
過去に生きていたものたちが、霊界でエネルギー磁場をつくり、そのなかから、また現代的な存在をつくり出してきています。
そして、すべては、根本的なる、大いなる念いが顕現してきたものなのです。
したがって、物質と精神を分ける考え方は極端であり、「物質も精神も、最後には一元化して、一つのものに還元されていくのだ」 ということを知らなければいけません。

と述べられています。
これはもうすごいことで、言わば宗教と科学の境界線がなくなってきていることを示しています。 このエネルギーという言葉は、もともと科学の世界での言葉ですが、精神の世界と一元化されるという神の目から見た在り方が明かされたということなのです。

【Eさん】 大川総裁の「縁起の理法」の説法にも驚きましたが、宇宙の秘密とも言うべき大川総裁が大悟された悟りが明らかにされたことは、これはもう人類の宝物と言えますよね。ありがたいです!

【お助けマン】 従来の宗教が、あの世に目覚めさせるための手段としてこの世を否定していたところがありますが、エル・カンターレの教えでは、この世の否定だけでなくそこに積極的な意味を見出しているのです。
例えば、お金について、どうも宗教的な人は全面否定をする傾向がありますが、もし、貧乏によって病院にも行けないという不幸があるならば、お金をかせぐことや、売買で正当な利益を得ることは、幸福のために肯定されるべきなのです。
すなわち、あの世はもちろんのこと、この世も積極的な意味で肯定されているということは、実は、このことがエル・カンターレがあの世でもこの世でも、その両方に責任を持っておられることの証明でもあります。

【Eさん】 よーく分りました。幸福の科学が何ゆえにアドバンスト宗教と呼ばれるのかがよく分りました。 大川総裁が再誕の仏陀ではあるけれでも、単なる再誕ではないことがよく分りました。前回の釈尊の悟りを超えた全宇宙レベルでの教えを説かれていることも分りました。 そして、この世における幸福も否定せず、その活動によって大量の菩薩を産み出すことが今回の目的であるわけですね。 私たちは、今、本当に奇跡の時代を生きているのだと強く実感させていただきました。
今日もいい話をありがとうございました。

と言ってEさんは帰られました。お助けマンは、エル・カンターレの教えはこの世を否定するものではなく、そこに積極的意義を見出し肯定するものだと言っていました。 しかしながら、ここで注意しなくてはならないことは、この否定の否定であるこの教えの実践は、「言うは易し行うは難し」ということです。ひとつ間違うと、執着を否定する前に、この世を肯定してしまい、俗人と同じになってしまうという危険性があるということです。 つまり、人類はさらなる難しい修行の段階に入ったという解釈ができるということではないでしょうか・・・。  エル・カンターレに感謝。

では、また続きます。次回は、『仏陀からエル・カンターレへ』(その7)です。

(その6 終わり)