『仏陀の証明』(その7) 現代語による仏教解説

入会間もないEさんが、大川総裁が再誕の仏陀であることを、どう説得的に説明すればいいかを聞きに来られ、その続きとして、今回は、仏教を現代語で説けばどうなるのか、それを大川総裁の説法から学びます。

以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回の『仏陀の証明』(その6)「縁起の法は仏陀の証明」には驚きました。 個人の悟りを超えて宇宙のスケールの話しに圧倒されてしまいました。
それで、「仏陀の証明」のその次は何ですか?

【お助けマン】 第七点目は、再誕の仏陀が仏教を現代語で説かれたならばどう説かれるのか、それを学びます。
仏教が他の宗教と比べて難しいと言われるのは、その教えの数の多さもありますが、漢語で説かれていることがその原因でもあると思います。
例えば、「無我」は相変わらずアナートマン(我:アートマンの否定語)という表現で残されました。

 

そこで、仏陀が再誕されて、現在に伝わっている仏教の教えを見られてどう思われるのか。おそらく、私が説きたかった教えは、もっと分り易いもので、その真意はこういうことだったのだ、と言われるに違いないと思います。 その再誕の仏陀による現代語での仏教解説が、左のカバー絵の『大悟の法』の、第5章「常に仏陀と共に歩め」でもあります。おそらく長らく仏教を勉強してきた人にとっても目からウロコとなる内容と思います。

【Eさん】 ワクワクしますね。早く教えてください!

【お助けマン】 はい、分りました。その章全体の一字一句が仏教の現代語による解説なのですが、あえて私見で抜粋させていただけるとしてお話ししたいと思います。
それでは、ページを追って再誕の仏陀による現代語、仏教解説をご紹介します。

◆ まず、221ページに、ずばり、仏陀は「心の法則」を悟ったのだとあります。

・・・ 二千五百年前に仏陀が悟ったことは、結局、心の法則であったのです。仏陀は心の法則を悟り、その心の法則を使うことによって、どのような世界が展開するかということについての経験を得て、智慧を手に入れたのです。

この文章もさらっと読んでしまうところですが、では、なぜ大川総裁は釈尊の悟りが分るのか。それは、大川総裁が「本人」以外の何者でもないことの表れでもあります。

◆ 次に、228ページに本来の「念仏」の意味が説かれています。

仏教では、各地の寺院で仏像を祀(まつ)っています。ユダヤ教やイスラム教から見れば、それは偶像崇拝として否定されるかもしれませんが、 仏像には、やはり意味があるのです。
仏像を本尊として安置し、それに向かって精神統一をしていると、本尊が自分のなかに入り、自分が本尊のなかに入って、本尊と自分とが一体になってきます。 これを「入我我入」といいます。自分のなかに本尊が入り、本尊のなかに自分が入って、本尊と自分とが渾然一体となる境地があるのです。・・・
心に仏を思い浮かべ、心のなかから、この世的な波動、三次元的な波動をどんどん落としていき、自分と仏との一体感を味わうのです(本来の念仏)。

と、あります。これも目からウロコの内容と思います。現在、念仏とはお経を唱えることとなっていますが、このような念仏の意味をかつて聞かれたことがあるでしょうか。

◆ また234ページに、「仏性」の意味が明らかにされています。

・・・ 人間以外のものも含めて、この地上に存在が許されているすべてのものには、被造物、すなわち創られたものとしての痕跡があるということです。 人間であれ、動物であれ、植物であれ、みな、創られたものとしての痕跡があるのです。 創られたものとしての痕跡とは、その生き物をあらしめようとする力が宿っているということです。・・・
そのあらしめようとする力は、「仏性」という言葉で呼んでもいいのですが、表れ方においては、心の法則として表れています。 すべての存在が、心の法則を持ち、その心の法則に則って生きているということが、創られたものとしての痕跡なのです。

と、あり、仏性の意味とその表れ方が明らかにされたのです。

◆ つづいて237ページに、仏教における「自由性」が説かれています。

(心の状態の)表れ方にでこぼこはあり、優劣はありますが、「十界互具(じっかいごぐ)」といわれるように、すべて人のなかに、 仏の世界、如来の世界、菩薩の世界、あるいは、地獄の世界など、さまざまな世界に通じるような、心の働きがあるのです。 そういう心の可能性があり、どのように”チャンネル”合わせていくかという点に自由性が与えられているわけです。
この自由性が与えられていることを知り、それを見事に手中に置いて、コントロールすることのできる境地が、悟った人b>の特徴です。

と、あり、その「自由性」を仏教的に難しく言うならば、「解脱」となります。ですから、「解脱」を現代的に表現すれば「自由」と表現されるということです (『沈黙の仏陀』 第6章「解脱の意味」1 解脱と涅槃――自由と平和)。

◆ さらに、「心の平和」の意味を説かれ、それが仏教理論の「涅槃」を意味することも明らかにされました。260ページです。

・・・ 仏教は心の自由と平和の両方を追い求めているのです。心の平和の境地のことを、仏教では「涅槃」と呼んでいます。死後に還る高次元世界、安らいだ天国の世界も涅槃の世界(無余涅槃<むよねはん>という)ですが、 そういう天国の世界、如来界や菩薩界などの安らぎ世界を、地上に生きていながら手に入れること、生きながらにしてその状態に入ることも涅槃なのです。

と説かれ、私は、「涅槃」が「平和」を意味するなどとは聞いたことがありませんでした。そして、この自由と平和を含めた悟りのことを「智慧」といい、それを押し広げていく行為を「伝道」と説かれたのです。

◆ 265ページに、その「智慧」と「伝道」の意味が説かれています。

・・・ 仏教には自由と平和という二つの特徴があり、悟りのなかには、その両方が入っています。この自由と平和を含めた悟りのことを、智慧と言います。
この智慧は個人のものではありません。真実の智慧には普遍性があり、それは人類の共通財であって、公共のものなのです。
仏陀は、自分の悟りを自分一人のものとはせず、悟りの果実としての智慧を、他の人にも分け与えようとしました。 「このようにすれば、悟りを得ることができる。あなたがたも、修行をすれば、仏神と一体の状態になれるのだ。その状態を目指しなさい」と、みずからが得た智慧のありかたを教えました。 この智慧を押し広げていくことを伝道と呼んだのです。
そして、智慧を押し広げることは、同時に慈悲であり、多くの人々の苦しみや悲しみを取り除く行為です。それは、また愛の実践でもあります。 慈悲にして愛、愛にして行動の原理が伝道です。これが大事なのです。

と、自由と平和、そして智慧と伝道の関係までが現代語にて解説されたのです。実は、仏教での慈悲とは伝道だったのです!

◆ さらに、268ページに、その心の自由性と「縁起の理法」との関連を以下のように簡潔に説かれています。

仏は、心の自由性と、原因・結果の「縁起の理法」を人間に与えました。心の自由性には、その反面として、必ず責任が伴います。 したがって、人間は、自分がなした原因行為による結果については、甘んじて受けなくてはいけません。それは覚悟すべきです。
原因に対する結果は、この世においても来ますし、また、この世で縁起が完結しない場合には、この世を超えた世界において、それは必ず完結します。

と説かれ、「縁起の理法」を無視して人間は生きることができないことも示されたのです。さてどうでしょうか。この説法を聞いて長年仏教を勉強してきた仏教大学の学生が「やっと仏教が分った」と言ったのが分るような気がしたのではないでしょうか。
本書の「まえがき」に、

とりあげたテーマはたとえ難しくとも、これ以上わかりやすく、かつ、現代的に説くことは、プロの宗教家としては至難のわざである。 しかも、私の教えは、人生の疑問への結論に満ち満ちている。

とあり、まさに「仏陀の証明」ここにありですね。

以上、お助けマンが紹介してくれましたが、仏教用語の「解脱」「涅槃」「悟り」、そして「慈悲」は、「自由」「平和」「智慧」、そして「伝道」という現代の言葉で表現できることを学びました。 そして、それらの意味が、単なる用語ではなく生きた「心の教え」として、かつ、それらを立体的、また論理的に理解できることも学びました。
何か、祇園精舎霊鷲山(りょうじゅせん) に座って、釈尊の直説金口の説法を聞いているような感覚になったのは私だけではないようなな気がした次第です。
仏陀に感謝。
では、また続きます。次回は、仏陀の証明(その8)です。

(その7 終わり)