『仏陀の証明』(その6) 縁起の法は仏陀の証明

 

入会間もないEさんが、大川総裁が再誕の仏陀であることを、どう説得的に説明すればいいかを聞きに来られ、その続きとして、今回は、縁起の法の教えから仏とは何かを学び、それを説ける方とはどういう存在であるかを学びます。
以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。

【Eさん】 先回の「もともと仏教は戦う宗教だった」は、実際、目からウロコでした。 仏教が、長年の歳月の中でいかに曲がって伝わったかがよく分かりました。
それで、「仏陀の証明」のその次は何ですか?

 

【お助けマン】 第六点目は、縁起の法の教えから、仏の本当のお姿を学びます。
大川総裁は、縁起については随所で述べられています。
まず、左のカバー絵の『釈迦の本心』では、第5章「縁起の法」で、人間は、縁起の法のもとでどのように生きていけばよいかという観点から、多くの学びを頂いています。
そしてそのなかで、仏教は、そのような法則のもとで、人間はどのようにすれば幸福になれるのかという「幸福哲学」を説いた教えであるともおっしゃっておられます。
つまり、仏教とは、人間がどうしたら「幸福」になれるのかを「科学」的に説いた教えと理解すれば、「幸福の科学」そのものであるとも言えます。ここに、「幸福の科学」は、再誕の仏陀が仏教をさらにスケールアップして現代的に説いた教えであるということが分かるのです。

【Eさん】 なるほどね。仏教って、「幸福の科学」だったんだ。また新しい発見をありがとう。

【お助けマン】 そうです。仏教と言うと、何か漢語ばかりで難しいように思いますが、もともと釈尊は、その当時の分かりやすい日常語で説法をされていたのです。
そのインド語(梵語)で書かれた教えが、中国文字の漢語に翻訳され、それがそのまま日本に伝わったのです。 ですから、初めから難しい漢字ばかりの言葉ではなかったのです。そして、今、仏陀が再誕されて、もとの日常語で仏教の精神をお説きになっているということです。

【Eさん】 分かりました。仏教を通常の日常語で説かれるということが、また再誕の仏陀の証明ということでもあるのですね。よく分かりました。

 

【お助けマン】 それだけではありません。人間がどのようにすれば幸福になれるかという受身の立場だけではなく、神の立場から、「縁起とは何か」を説かれているところが、大川総裁のまたすごいところなのです。
それが、左のカバー絵の『心の挑戦』の第1章「縁起とは何か」では、次のように説かれています。その部分を朗読いたします。

「世界の成り立ちは、原因・結果の法則、縁起の法則によって成り立っている。また一方、人間というものも、この世でのさまざまな諸条件のなかで、自らが魂修行として何を選び取っていくかにより、より優れたものへと登っていくことができる。 そしてそこに仏への道がつながっている」――こういうことになりますと、縁起という思想は、いわゆる「大宇宙の理法」というものとまったく同じことである、ということに気がついてくると思います。 大宇宙の理法と一緒のことなのです。
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そうしてみると、縁起というのは「宇宙の理法」という意味なのです。 では、宇宙の理法とはいったい何であるかというと、これは仏が考えている法則ということですから、「仏の理想」でもあります。あるいは「仏の念(おも)い」でもあるわけです。あるいは、場合によっては、この法則が「仏の生命」そのものでもあるわけです。 「仏」というのは、法則なのです。その法則に基づいて世界は創られたのです。
そうしてみると、キリスト教系で言う、「造物主と被造物があった。創ったものと創られたものがあった」という擬人的な比喩(ひゆ)は、仏教的な思想においては、「すべては法則のもとに運行されている」ということに相当するわけです。 その法則を「仏の念い」と言ってもいいし、「理想」と言ってもいいし、「仏の力」と言ってもいいけれども、「仏というものは、一つの法則にこの宇宙を委(ゆだ)ねられた」ということを言っているわけです。 「人間も、万象万物も、すべてがその法則のもとにあるのである。法則が仏なのだ」ということを言っているわけです。
そうしてみると、仏陀が、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」と言っていますけれども、この意味がわかるような気がするでしょう。
「法というものは縁起なのだ」と――。

と、ここでは、人生論だけではなく大宇宙のスケールで述べられています。

【Eさん】 びっくりしました、すごいですね。これこそ再誕の仏陀の証明じゃありませんか。これほど宇宙の理法から仏陀の真意までを、簡潔に、かつ、的確にお説きになれるのは仏陀、いや仏陀でも本仏しかおられないですよ!

【お助けマン】 さらに、仏教の本質についても、スパっと説いておられます。その部分も朗読いたします。

 このように、釈迦の考えた縁起というのは、空間的にも適用できますし、時間的にも適用できます。この「縁起」ということが、神人隔絶型の宗教において「絶対神」といわれるようなものに相当する思想であるわけです。
ですから、これは、決して無神論や唯物論につながっていくわけではありませんが、宇宙を統(す)べている法則を喝破(かっぱ)したということにおいて、非常に優れた教えである、と言うことができるのです。 そして、その縁起の法則を見抜いて、自らがそのなかで生きながら、最善の生き方をした釈迦が、天上界に還っても仏陀として存在し、「仏陀の上には神がいない」と言われているのは、そうした理由によるわけです。
もともと魂のなかには、神的なものがあるけれども、宇宙の理法を見抜いて、その理法に沿って最高の生き方をしたならば、自らが最高の霊格を持った存在となることができる――これが仏教の思想なのです。

と、「仏陀の上に神がいない」ということの理由を明らかにして述べられているのです。
文章にしては、それほど文字があるわけではありませんが、どのお寺に行っても、あるいは、どの仏教系の大学に行ったとしても、これだけ明確に、仏の位置づけと仏教の思想の真髄を聞くことはできません。
事実、私の友人は、この文章を読んでこう言いました。「ああ、生まれてきた甲斐があった。これを聞けたなら、自分はいつ死んでもいい」と・・・・。
実は、それだけ価値のある文章でもあり、同時に、人類の宝でもあります。

以上、お助けマンが解説してくれましたが、2500年の時空を超えて、人類が捜し求めてきた真理が、いとも簡潔に、かつ、明確に説かれたのです。これを仏陀の言葉と言わずして何と言うのでしょうか。まさしく「仏陀の証明は教えにあり」ということを再度発見させて頂いた次第です。  仏陀に感謝。
では、また続きます。次回は、仏陀の証明(その7)です。

(その6 終わり)