「帰依」と「盲信」とはどう違うのですか?

 

私の友人の元ジャーナリストのAさんが、聞きたいことがあると言って来られました。Aさんは、先回、聖書の中のイエスさまの言葉である「彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」の意味を聞きに来られた方です。そのときに、仏陀や救世主を批判したり迫害する罪は、絶対に許されないことを強く納得された方でもあります。
以下は、そのときのAさんとの会話の内容です。

【Aさん】 先回は、聖書のイエスさまのお言葉を説明をしてもらってありがとう。
実はね、また信仰に関係のあることなんだが、あるサイトを見てたら「帰依」と「盲信」の意味をごっちゃにしているみたいなんだよね。それで、今日はその違いを聞きたいと思ってやって来たんだよ。

【お助けマン】 はい、分かりました。確かに「帰依」とは、「大いなるものに自分を捧げること。身も心も委(ゆだ)ねること」と言う意味なので、「盲信」と同じではないかと誤解される危険性があります。しかしながら、両者には違いがあります。

【Aさん】 ところで、あんたところの団体の信仰の形態としては、「三宝帰依」だったよね。

【お助けマン】 はい、うちの信仰形態にも発展段階がありますが、間違いなく三宝帰依が信仰の基本になっています。

【Aさん】 いやね、またブラック・サイトの話しで申し訳ないけど、大川総裁から仏陀への帰依が大事だと言われて、信者はみな盲信しているのではないかと、そういう書き込みがあったんだよね。

【お助けマン】 そうだったのですか。私はブラック・サイトは見ないので知らないのですが、さすがですね、元ジャーナリストだけあってよく情報を集めておられますね。

【Aさん】 いやいや、これも職業病かも知らんね。ところで、その帰依と盲信の違いとは何なの?

【お助けマン】 では、ご説明したいと思います。
まず、盲信とは何かですが、Aさんは、「鰯(いわし)の頭も信心から」ということわざをご存知ですか?

【Aさん】 もちろん知っているよ。簡単に言うと、鰯(いわし)の頭だって信じたらありがたくなるものだということだよね。

【お助けマン】 はい、そうです。日本では、昔からアニミズム[精霊崇拝や自然崇拝](『繁栄の法』第2章「霊界の真相」【3日本の底流にあるアニミズム】)があって、それがけっこう残っており、木を信じたり石を信じたり、あるいは、狐や蛇を信仰するところがあるようです。
あまりお稲荷さんのことをあれこれと言えないのですが、なぜ、木や石、あるいは、狐や蛇がこの高度な文明社会を生きている人間を導くことができるのでしょうか。狐や蛇が、コンピュータや高等数学を人間に指導できるでしょうか。あるいは、愛や悟りを人間に指導できるのでしょうか。それこそ迷信と言われるもので、さすがに文化人にアニミズムは信じられるものではないと思います。

【Aさん】 そう言われれば、村の神社に行ったら、大木や石にしめ縄が張ってあったり、狐の像があったりするね。それだけでなく手を合わせている人も多くいるよね。
まあ、神仏を信じないよりはずっといいとは思うけど・・・。

【お助けマン】 そうなのです。何の根拠もなく信じられる人がいるのです。実は、その信仰の形態を「盲信」と言います。ですから、そこには、自分の頭で考えた納得性がありません。他人が言うから信じるというスタイルなのです。

【Aさん】 なるほどね。僕も元マスコミで食っていたので悪口は言いにくいのだけど、マスコミの記事を自分の頭で考えずにそのまま額面どおり信じるというのは、日本人のアニミズムの性格と共通点があるかも知れんね。その性格だから、皆だまされてしまうんだ。
盲信は分かったけど、じゃ、帰依って何?。

【お助けマン】 はい、幸福の科学ではエル・カンターレ信仰が信仰の形態となっていますが、その基本に仏教と同じで三宝(さんぽう)に帰依するスタイルがあります。
そして、その三宝とは、仏・法・僧を意味します。すなわち、「仏」は、現成(げんじょう)の仏陀である大川総裁を意味し、「法」は、大川総裁の説かれる法、そして、「僧」は、幸福の科学の組織意味し、その3つ宝に帰依するということを基本としています。なぜ宝かと言うと、それぞれが尊いからです。 では、その帰依とは何かですが、それについては、参考となる経典がありますのでその部分を見てみたいと思います。
『仏説・正心法語』の菩提心の言葉「修行の誓い」に次のようにあります

帰依は 仏を 頼りとし
法の 力を 信ずるなり
僧団(サンガ)の 規律を 守るなり

つまり帰依とは、仏である大川総裁を常に頼りとして、大川総裁が説かれる法の威力を信じ、そして、信者がばらばらになって修行するのではなく、幸福の科学の組織のルールを守って修行をするという意味になります。
ここで重要なのは、「法の 力を 信ずるなり」と言うところだと思います。仏を信じるのは当たり前としても、法を学び理解してその威力を信じるということは、つまり、信じるという行為に智慧が伴うということを示しています。 すなわち、理屈も納得性もなく盲目的に信じるのではなく、自分の頭で考えて法を根拠にして信じるということが分かります。

【Aさん】 本当だね。もし智慧を伴うなら木や石など絶対に信じないね。根拠がないし学びもないからね。

【お助けマン】 また、この帰依は宗教の世界だけで通用するものであって、政治の世界では用いられません。もし、政治の世界でそれを言い始めたら危ないと思っていいでしょう。 なぜなら、帰依は強制ではなく、「内心の自由」に基づいているからです。
それでは、ここで『仏陀再誕』の第7章「信仰と仏国土建設への道」【仏陀への帰依】からその一部をご紹介したいと思います。

仏陀は仏陀として尊いのではない。
仏陀は、その力を、その悟りを、その光を、その愛を、その慈悲を、
偉大なる大霊から授(さず)かっているがゆえに、尊いのである。
たとえ、宇宙の根本仏に対する帰依の姿勢があろうとも、
たとえ、霊実在界におけるところの
高級霊に対する帰依の精神があるとしても、
地上に降りたる仏陀に対する帰依の精神なくば、
この信仰は偽者(にせもの)である。
---(略)---
自分の都合によって、勝手な偶像を大宇宙の根本神として描き、
また、実在界にあるところの
特定の霊を心のなかに描いて、信仰したとしても、
もし、地上にある仏陀の教えを誹(そし)り、これに背(そむ)く者あらば、
それは大宇宙大霊の意に反していると言ってよい。
なぜならば、
大宇宙大霊はその時代のすべての責任を仏陀に命じているからである。
---(略)---
イエスの時代に生まれても、
イエスそこにありと信じなかった者は数多い。
イエスここにありと信じえなかった者たちが、
その後、数百年、数千年を経て、地上に生まれ変わり、
キリスト教会にて、十字架の姿のイエスに対し信仰しておるのだ。
このような愚かなことを繰り返してはならない。

と、あります。
つまり、信仰とは、仏陀や救世主が誰であるかということを理解し、そして、その理解をもとにして信じる訳ですから、そこに当然智慧があるわけです。従って、アニミズムは別として、幸福の科学のように世界宗教となる高度な宗教の信仰形態には、悟りを伴うことが分かります。
従って、今、幸福の科学に集っておられ、再誕の仏陀である大川総裁を信じておられる信者の方々は、それで立派な悟りを持っておられるということになります。
また、逆も真なりで、これだけの多くの法や仏陀の証明が存在するにもかかわらず、仏陀の下生を信じられないということは、つまり、まったく悟っていないと言うことができます。 そして、そのことはイエスさまの時代にもあったことで、それを繰り返してはならないとも警告されているのです。

【Aさん】 なるほどね。再誕の仏陀を信じること自体が悟りである、これは、もう立派な「一転語」だね。僕も、そろそろ三帰誓願しないといけないかな。じゃ、今日はこれで帰るよ。ありがとう。

と言って、Aさんは帰られました。以上、お助けマンが帰依と盲信の違いを説明してくれましたが、幸福の科学の信者の人たちは、智慧を伴った信仰を持っているが故に、そう簡単に信仰を揺らすものではないと強く思った次第です。 そう言えば、下劣週刊誌の記事や批判者の発言によって信者が全く影響を受けていないということは、そのことを如実に証明しているのではないでしょうか。 仏陀に感謝。

(終わり)