「悟後の修行」が大事とよく聞きますが、なぜですか?

 

先日、異次元パワーを感じられないと言って来られた信者さんのGさんから、またご質問をいただきました。それは、「悟後(ごご)の修行」についてのご質問でした。

以下は、そのときのGさんとの会話の内容です。

【Gさん】 先日は、色々と気づきを頂きありがとうございました。おかげさまで、主を愛すということがどういうことなのか、段々と分かってきたように思います。

【お助けマン】 それは良かったと思います。私も何かのお役に立てたなら嬉しいです。

【Gさん】 実は、今日またお聞きしたいことがあってやって参りました。それは、私と同じ信者の友人から、「悟後の修行」が大事だよと言われたのですが、なぜ、その「悟後の修行」が大事なのかと言うことが分からなくて・・・。

【お助けマン】 それで来られたのですね。

【Gさん】 はい、何か大川総裁のご著書にあると聞いたのですが、どのご本に書かれているのでしょうか。

【お助けマン】 うーん、それは、『信仰告白の時代』と思います。ちょっと待ってください。今、本棚から取ってきますので・・・。
はい、ありました。このご本の、第4章「悟りの復権」の第6節「悟後の修行」にありました。少し読んでみますね。

今日、「悟った」と思っても、明日、新たな事件が起こり、新たな魂修行の課題が与えられたならば、今日の悟りがそのまま明日に通じるわけではないのです。 自分のその悟りは、新たな人生経験、新たな事件のなかで、いかに活かされるべきなのかを考えなければなりません。 「いま自分はこういう悟りを得た」ということがあったとしても、その悟りが一生にわたって通用するわけではないのです。
--(略)-- 要するに、悟りというものはそうしたものであって、いま悟ったと思っても、それで終わりではないのです。 それからあとが大変なのです。悟った後の修行こそが大事なのです。これを「悟後の修行」と言います。
幸福の科学という真実の宗教団体へ来て、心の磨きをし、本を読んだり講演を聴いたりして、仲間と修行していると、 一定の段階の悟りまでは行きます。努力すると、みんな、ある程度のところまでは行くのです。
ただ、そこで止まってはなりません。悟後の修行、悟りを得てのちの修行――
これこそが実は本当の修行なのです

とあります。

【Gさん】 これこそが本当の修行とおっしゃっていますが、それは、どういうことなのでしょうか。

【お助けマン】 私も同じ修行の身ですので、偉そうなことは言えませんが、私が日々感じていることでよろしければお話しをさせて頂きます。
まず、悟りの階梯は無限にあるということが前提になっているということです。その道は、神へと続いているわけですが、神は至高であり、最高であり最大であり最強であるがゆえに、またそれは、最勝であり無限に続く道でもあります。 従って、各段階で限定すれば、その段階で悟ったということはあり得ますが、神への道を歩む人間である限り、永遠に悟ったということはあり得ません。従って、私たちは永遠の旅人であると言えます。

【Gさん】 はい、神への道のりが無限に続くものであるということは分かったのですが、それと「悟後の修行」とはどういう関係があるのでしょうか。

【お助けマン】 それは、たとえ各階梯での悟りを得られたとしても、次なる悟りがあるわけですから、修行を永遠に継続しなければならないということを意味しています。

【Gさん】 つまり、その階梯で悟った後も、また次なる悟りがあるので修行を継続していくという意味ですね。

【お助けマン】 そうです。そのとおりです。しかしながら、残念なことに、ある程度心境が高くなって自分は悟ったと思い、そこで、修行を止めてしまう人も少なくないのです。ですから、この「悟後の修行」が大事だという理由は、転落から修行者を守るという意味でも非常に大事なことなのです。

【Gさん】 でも、それって、非常に疲れることではないですか?

【お助けマン】 確かに、いつも走り続けていたなら、ここで一休みしたいと思う心も出てくることでしょう。でも、悟りに向かって歩んでいる私たちであるならば、精進を止めてはならないのです。実は、精進とは信仰の証でもあるからです。かつて、大川総裁は、信仰心には、必ず感謝と精進を伴うのだと言うことを、『信仰と情熱』のご本の中ではっきりと述べられました。

【Gさん】 あっ、そうなんですか。精進と信仰心とが密接に関係しているとは知りませんでした。

【お助けマン】 そうなのです。その同じご本の中で、精進の大切さを、このようにも述べられています。
『一日怠れば三日遅れる。三日怠れば十日遅れる。一か月怠れば、さらにその修行は遠ざかり、・・・ 三か月この修行を怠れば、ただの人、いやただの人以下になるということを知らねばならない。』  とおしゃっています。

【Gさん】 それは知りませんでした・・・。
ところで、この「悟後の修行」に有効な心構えというものがあるのでしょうか。

【お助けマン】 はい、あります。精進は、仏教の中心の教えですので、仏陀は常に怠ることへの警鐘をなされていました。それゆえに、再誕の仏陀である大川総裁は、『仏陀再誕』の271ページの「日々の発見/日々の感動」の中でこのように説かれています。

仏のために、仏の教えのために、そして、自らが悟りを得るために、
一時的に身命(しんみょう)を賭(と)すという気持ちになることは、
そう難しいことではない。
ただ、おそらくは十中八九の人間は、やがてその感激を忘れ、
平凡な生活のなかに埋没してゆくということだ。
その感激を忘れ、その尊さを忘れた時、また自らも転落し、
平凡なる河原にて、石を数えているということを忘れてはならない。
よいか、
修行への道は日々の発見であり、日々の感動である。
もし、そのようなものを感じなくなったとするならば、
もはや慢心していると言わざるをえない。
慢心したる者は、悟りへの入り口をくぐることはできないのだ。
慢心したる者は、その門より追い出されることとなる。
その門から転げ出、そしてやがて
元いた道を引き返さざるをえなくなる。

と、しっかりと悟りを維持することの難しさと重要性を述べられています。また、同時に、今の退転者たちをすでに予言されていたとも言えます。

【Gさん】 分かりました。修行への道は日々の発見であり、日々の感動であるのですね。

【お助けマン】 そうです。ですから、毎日、大川総裁のご本のたとえ数ページでもいいですから、読んでその中から新たな発見をして頂きたいのです。

【Gさん】 実は、私は大川総裁のご本を読みますと、いつも発見の連続ですので発見には自信があります。ただ、忘れっぽくて・・・。

【お助けマン】 それは誰でもそうですよ。むしろ、一回読んで覚えられると思ってはいけないのです。実は、真理の勉強法には継続とならんで、もう一つ、重要なキーワードがあります。それは「繰り返し、繰り返し」ということです。

【Gさん】 そう言えば、大川総裁のご説法には、「繰り返し」という言葉がよく出てきますね。今、気がつきました。

【お助けマン】 そうです。この「繰り返し」という言葉と、この世の修行とは何か密接な関係があるのではないかと私は思っています。つまり、繰り返しあることを行うことによって習性化し、それを魂の潜在レベルにまで浸透させるのだと。 そして、これは、この世でなければできないことであるのだと・・・。
なぜなら、業(ごう)あるいはカルマは、この世の「行為」によらなければ作られないからだと思っています。

【Gさん】 話しが、修行からカルマまで来たので難しくなったのですが、ただ、修行を習性のレベルまでにすることによって、今世で、よいカルマを作れるのだと言うことが分かりました。

【お助けマン】 さすがGさん、よくご理解して頂いて嬉しいです。この世は、肉体のハンディがあって、修行するには非常に厳しい環境の中にありますが、それを乗り越えて精進が出来たなら、それは、非常に魂を鍛えることになるということです。

【Gさん】 だから、菩薩などの光の天使たちは、今世を機縁として生み出されると言われているのですね。

【お助けマン】 そうです。だから、たとえつらくても頑張りましょうよ。それが、この地球が、「神々のための学校」と言われている理由でもあると思います。

【Gさん】 はい、分かりました。この世は、つらくて厳しいということだけではないということがよく分かりました。日々発見し、日々感動する自分となるように頑張り、そして、多くの人々に学んだ真理を伝えて菩薩になりたいと思います。今日は本当にありがとうございました。

と言って、Gさんは帰られました。そう言えば、当初、真理に触れて輝いていた人達が退転してしまった理由は、自分はもう悟ったのだと慢心してしまって精進をしなくなったからであることがよく分かりました。それと同時に、自分の信仰心をチェックしたければ、自分の精進と感謝の心を見れば分かるということも発見した次第です。 感謝。

(終わり)