「教えのつまみ食い」 とは何ですか?

 

先回、「悟後の修行」について聞きに来られた信者のGさんから、今度は、「教えのつまみ食い」とは、どういうことですかという質問を受けました。

以下は、そのときのGさんとの会話の内容です。

【Gさん】 先回に引き続き、また来させて頂きました。悟後の修行という精進も、結局は信仰心があってのものである、と言うことが分かりました。

【お助けマン】 そうです。精進とは、信仰心があることの証として現れてくるものなのです。ですから、私は信仰心があります、しかし、今のところ精進はしていませんということはあり得ないのです。

【Gさん】 はい、色々と説明をして頂き、ありがとうございました。よく分かりました。
ところで、今日来たのも、その信仰心についての質問ですが、大川総裁が、教えのつまみ食いをしてはいけないと、よく言われているのですが、その「教えのつまみ食い」とは、どういうことを言うのでしょうか。それを聞きに参りました。

【お助けマン】 はい、分かりました。ところで、一般的に、「つまみ食い」と言えば、どういうことを言うのでしょうか。それは、たくさんある料理の中で、その好きな部分だけをつまんで食べることを言いますよね。

【Gさん】 食べ物のつまみ食いは分かるのですが、教えのつまみ食いとなると分からないのです。大川総裁のご本で、その記述はありますでしょうか。

【お助けマン】 はい、あります。会内の経典ですが、『君よ涙の谷を渡れ』 第1章「純粋な信仰」の43ページにありますので、少し読んでみますね。

言葉では「信じる」と言っても、まだまだ信じられないものであり、けっこう、自分に 都合のよい教えを取捨選択したりしています。 それは、会員だけではなく、職員や幹部でも同じです。自分に都合のよい部分は受け入れても、 耳が痛いところ、都合が悪いところは聴かずに逃げ、教えをつまみ食いしているのです
--(略)--
「自分に都合がよい場合は信じるが、都合が悪くなると信じない」という立場は、 「正しいか正しくないかについて、自分でジャッジメント(裁き)をする」ということであり、  結局、自分が神になっているわけです。
それではいけないのです。それは純粋な信仰ではありません。

とあります。つまり、教えのつまみ食いとは、説かれた法に対して、自分の好みで取捨選択することを言うのです。

【Gさん】 そういうことだったのですね。でも、それは、通常、本を読むときはいつもやっていることですよ。
例えば、育児の本を買ったときでも、そこに書いてあることをストレートに、全部子供に行うわけではありません。 これは参考になるので実践するけど、これはやめておこうとか、いつもよくやっていることですよ。

【お助けマン】 そうでしょ。それは分かりますよ。私でも同じですから・・・。
私の場合、ビジネスマンですから、色々なビジネス図書を買いますが、そこに書いてあることの全部を丸呑みにはしていません。この部分は納得いくが、この部分に対しては反論がある、ということが当然あります。

【Gさん】 では、なぜ、教えのつまみ食いは、まずいのでしょうか?

【お助けマン】 それは、そもそも、通常の書籍と大川総裁のお書きになった書籍とは、根本的な違いがあるということです。
では、何が違うのか。それは、大川総裁の書籍は、書籍であって書籍ではないのです。つまり、形態としては書籍の形を取っていますが、実は、仏典と同じと言うことなのです。あの三蔵法師の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が天竺(インド)の国から持ち帰った経巻と同じです。命を賭けて持ち帰った巻物と同じなのです。

【Gさん】 それは、どういうことですか?

【お助けマン】 つまり、形態としては書籍の形を取っていても、それは「お経」だということです。キリスト教で言うなら、聖書そのものになります。ですから、お経や聖書が写経される場合、行数や文字まで正確に書き写されることが厳密に要求されますが、その理由は、一文字一文字が重要な意味を持っているからです。 またそれに加えて、その一言一言が、仏や神の言葉であるゆえ故に、人間知でもって、改ざんすることは許されないということなのです。

【Gさん】 なるほどね。そう言うことですか。

【お助けマン】 ですから、聖書であるなら、ここは納得いくが、ここは気に入らないと言う牧師もクリスチャンもいません。つまり、彼らは、全ての文、全ての文字を読んで受け入れているのです。
もし、読んでその内容が分からなければ、それはお経や聖書のせいではありません。読んでいる本人の悟りが低いがために、理解ができないだけのことなのです。
従って、今、読んでも分からないことがあっても、半年後、1年後、数年、数十年後に分かることもあります。さらに、あの世に還ってから分かることもあります。
もう一度言いますが、理解できないのはお経のせいでも、聖書のせいでもなく、読み手の理解不足からくるものだ、と思わなければいけないのです。

【Gさん】 いやー、大川総裁の書籍は、仏典や聖書そのものだったのですね。だからこそ、自分の好みで、ここは受け入れるが、これは受け入れないということがあってはならないのですね。

【お助けマン】 そうなのです。それをつまみ食いといいます。それらの全てを取捨選択することなく受け入れることも、また信仰心の証でもあるのです。
それと、もう一つ大事なことを言っておかなければならないのですが、大川総裁のご著書は、初期の数冊を除いて、講演会などで説法された内容が、そのまま書籍になっています。

【Gさん】 それは知っています。お話しされた内容がそのまま本になるなんて、ほとんど無理なのですが、大川総裁は、このようにして書籍を作られているのですね。

【お助けマン】 そうです。それも奇跡であり、仏陀が再誕されている証明でもあるのですが、それよりも驚くとことがあるのです。

【Gさん】 えっ、さらに驚くことって何ですか?

【お助けマン】 はい、まことに不思議なことなのですが、大川総裁が説法されたそのお言葉がそのまま文章になっていますが、その言葉にまったく過不足がないということなのです。

【Gさん】 言葉に過不足がないとは?

【お助けマン】 つまり、あのインカ帝国の石垣は、カミソリの歯も入らないほどの石の組み合わせになっていることをご存知だと思いますが、大川総裁のお言葉もそうだと言うことです。つまり、余分な言葉はないし、また、不足な言葉もないのです。
例えば、説法された時点で、なぜ必要なのか分からない言葉であっても、将来において必要とされる言葉が、その時点ですでに文章に入れられているのです。これは驚くべきことです。

【Gさん】 そう言えば、それに感心することがたびたびあります。

【お助けマン】 しかも、その将来は、数千年先である場合もあります。

【Gさん】 これは、もう通常の人間智では無理です。余程、未来までを見通すことができる人でなければ無理です。

【お助けマン】 さらに、驚くことに、大川総裁の説法の基本的な内容については、当初の説法から変わっていないのです。例えば、政治や教育に進出してその改革をしていくことも最初の講演会でおっしゃったことです。幸福実現党を立党したときに、なぜ政治に進出したのかと言う人も居ましたが、これは最初の説法で言われたことでもあったのです。
一方、通常の科学者や研究者は、当初研究した内容をどんどん修正していくことがあります。従って、その論文を読むほうも、それをわきまえていて、納得するところと、少し距離を置いて斜め読みするところとを分けて読んでいます。
ところが、大川総裁の説法は、方便で説かれたところを除いて、基本的な教えについては当初と変わらないのです。
これが、学者の研究論文と、仏陀や救世主の言葉である仏典や聖書との違いなのです。

【Gさん】 分かりました。学者の研究論文と仏典や聖書は違うという説明を頂いて、やっと理解しました。

【お助けマン】 ですから、大川総裁の書籍は、仏典や聖書と同じで全てが真実ですから、自分の好みで取捨選択してはならないのです。もし、その時点で自分が理解出来なければ、さらに修行を積んで理解できるようになろうと思うのが真理の学習者としての態度だと思います。また同時に、その態度が信仰ある者としての態度でもあるということです。

【Gさん】 はい、よーく分かりました。でも、よく考えてみますと、昔、玄奘三蔵が命を賭けて天竺まで取りに行ったお経が、今、書店に並んでいるなんて、このほうがあり得ないことであり、また奇跡だと思わないといけないのですね。
今日は本当にどうもありがとうございました。

と言って、Gさんは帰られました。以前、「迷ったら法に戻れ」ということを述べましたが、大川総裁の書籍は、形態が書籍であっても、仏典であり聖書でもあるということを、もっと深く理解できれば、私たちの態度も変わって来るのではないかと強く思った次第です。反省、反省・・・。

(終わり)