降魔と悟りについて


本日、幸福の科学の会員のDさんが来られました。
そのDさんは、もう10年来の古い会員さんで、よく真理の勉強もされているのですが、最近では、会員になったときの感動も薄れてきて、悟りが進んでいないのではないかと不安に思い、相談に来られたのです。
以下は、そのときの会話の模様です。

【Dさん】 こんにちは。私は幸福の科学の会員のDと申します。

【お助けマン】 今日は、どのようなことで来られたのですか。

【Dさん】 はい、私は、もう会員になってから10年以上が経つのですが、大川隆法先生のご本も読ませて頂いており、また、精舎にも行って勉強もさせていただいております。

【お助けマン】 それはいいことではないですか。それで、お困りの事とは何ですか?

【Dさん】 はい、実は、私の悟りが、進んでいるのかどうかが分からないのです。入会当初は、どのご本を読んでも感動の連続で、目からうろこと言いましょうか、毎日ご本を読むのが楽しみだったのです。ところが、最近は、ご本の内容は頭に入っているのですが、今ひとつ、以前よりも悟ったという実感が無いような気がするのです。

【お助けマン】 はい、分かりました。
ところで、Dさんは、『仏陀の証明』(会内経典)と言う、大川隆法総裁のご本をお読みになったことはありますか?

【Dさん】 もちろんですよ! 私は悟りが好きなので、先生の悟りに関するご本は、何回も読み返して読んでいます。

【お助けマン】 これは、失礼いたしました。
それでは、第6章 正義の言葉『仏説・降魔経』 の最終節に『降魔即悟り、悟り即伝道』という節があったことは覚えておられますか?

【Dさん】 はい、よく覚えています。
確か、仏教は戦わないと昔から言われてきたことは間違いで、『魔との戦いは即悟りであり、悟りは即伝道です。』とあったと思います。

【お助けマン】 その通りです。
悟りに関しては、『反省なくして悟りなし』と、当初から学んでおられるので、皆様は、よく反省行に励んでおられますが、実は、降魔も悟りなのだということは、あまり認識されてなかったのではないでしょうか。
そこのところを少し読んでみますね。324ページからです。

宗教を確立するときには、悪魔との戦いがどうしても出てきます。まず、悟りを開く人自体の、悪魔との戦い。それから、その教えを信じている人たち、弟子たちの、悪魔との戦い。最後に、他の教団、あるいは世間の色々な人や政治勢力などの外敵を使って、悪魔は教団への攻撃を仕掛けてきます。このように悪魔はだんだん外へ出ていくのです。そうした攻撃の仕方をします。‥‥略‥‥
ですから、「仏教は戦わない」などというのは、とんでもない間違いであるということが、いま述べたことでわかると思います。
実は、魔との戦いから悟りは始まり魔との戦いから、悟りのあとの伝道も始まったのです。また、魔との戦いから、教団内の戒律もつくり、三宝帰依体制をつくっていったのです。ですから、常に魔と戦いつづけています。魔と戦って。体制をつくり、信用をつくり、教えを広げていったのです。そして、教えを広げる過程でも、常に魔との戦いが続いていたのです。‥‥略‥‥
本章では降魔の話をしました。これは非常に大事なことです。魔との戦いは即悟りであり、悟りは即伝道です。「降魔即悟り・悟り即伝道」なのです。また、「伝道即降魔」でもあります。

とあり、魔を打ち破るためには教学と強い信仰心が必要ですので、その過程で悟りが得られるということだと思います。

【Dさん】 いやー、降魔即悟りについては、正直、私自身認識が薄かったと思います。

【お助けマン】 反省は、自分自身を見つめるだけで済むことなのですが、降魔は、相手がいますし、また、それに打ち克つことは社会の幸福が入ってきますので、言わば、小乗と大乗の違いとも言えるかも知れませんね。だから、社会の幸福を考えると、魔を見ていただけではだめで、やはり、それを打ち負かす言葉や行動として現れてこないと、実は悟りにはならないということではないでしょうか。

【Dさん】 いや、私はね、根っからあまり争いごとが好きじゃないのです。また、色々なことに巻き込まれるのがイヤなので、遠巻きにして見ていたいほうなのです。

【お助けマン】 えっ、それじゃ、単なる自己保身だけじゃないですか。誰かがやってくれると皆が思ったらどうなりますか? 何も為されはしないじゃないですか。

【Dさん】 あっそうか。だから正義なのか。だから、正義の言葉『仏説・降魔経』なのか・・・。

【お助けマン】 そうです。
仏教は、昔から何をされても黙っている、いわゆる忍辱(にんにく)の姿勢が大事とされてきたのだけれども、これも再誕の仏陀の証明になるけれども、大川隆法総裁は、仏教のさび落としをされて、悪は許すまじ、という教えを前面に出されています。これも、悪をこれ以上犯させないための、仏の慈悲でもあるのです。

【Dさん】 分かりました。

【お助けマン】 それでね、大切なのはこれからなんだけど、悟りというものは、もちろん、反省から始められるのだけど、見抜くという意味でも降魔が大切なのです。

【Dさん】 だから私の悟りも、今ひとつ充実感がなかったのですね。さらに、次の悟りの段階に進むためには、悪を見て見ぬふりをしてはいけないのですね。では、どうすれば、いいのですか?

【お助けマン】 Dさんは、以前に実話を元にして作られた映画で、『ザ・ライト』という映画がありましたが、ご覧になりましたか?

【Dさん】 はい、友人が観ておいたほうがいいよ、と言うので観てきました。

【お助けマン】 それで、感想はどうでしたか?

【Dさん】 怖いというよりも、これが現実だと分かって、何か切実なものを感じましたね。他人事ではないのだと・・・。それと、若い神父さんが、エクソシストのベテランの神父さんから学んで、悪魔との対決をするのですが、悪魔の正体を見破ったら終わり、というところが勉強になりました。
何と、『仏陀の証明』に書いてあるとおりで、悪魔は見抜いたら終わりという智慧が大事と言うことと同じでした。

【お助けマン】 もちろん、それは、『仏陀の証明』が真実の書であるので、当然のことなのですが、今、Dさんがおっしゃったように見破ることが一番大事なのです。悪魔は、一見、もっともらしいことを言うのです。
例えば、この世的な、しきたりや習慣から見て、少しでも違ったことをすると、そこだけを突ついて攻めてくるのです。その人の置かれている立場や、役割などには一切触れずに、その一点だけをついて来ることがあります。だから、多くの人が、そうかなと思って、ころりとだまされてしまうのです。

【Dさん】 あー分かりました。
そう言えば、ネットなどで他人を中傷したり、誹謗したりしている書き込みを見かけたことがありますが、その人の役割など無視して、その部分だけ言っているので、知らない人はだまされるのでしょうね。

【お助けマン】 そうです。それを見抜く力こそが悟りなのです。
そして、それを見抜いたならば、見て見ぬふりをするのではなく、自分で納得できる言葉と行動をする。これが、実は悟りへと向かう道ということではないでしょうか。だから、降魔即悟りなのです。

【Dさん】 はい、よく分かりました。
私は、真理の勉強が好きで、また座禅も好きですが、やはり、悟りへの道は、降魔を通してこそ、鍛えられて段々と本物になるということがよく分かりました。これからは、悪を見かけたら、見て見ぬふりをするのではなく、言うべきことはきちんと言うようにしていきたいと思います。何か、私の悟りも段々と強くなっていくような予感がします。今日は、本当にありがとうございました。

と、言ってDさんはお帰りになりました。やはり、仏陀が下生されているからこそ、何度転生しても学べないことが、一度に学べるということを、改めて確認させていただいた次第です。合掌。

(終わり)