「反省なくして悟りなし」を実証した大阿闍梨

元ジャーナリストのAさんは、最近発刊された「 酒井雄哉(さかいゆうさい)日本天台宗 大阿闍梨(だいあじゃり)に引導を渡す」を読まれてやって来られました。
以下は、Aさんとの会話の内容です。

【Aさん】 いやー、びっくりしてしまったよ。 二度も比叡山の千日回峰を満行して大阿闍梨になった人が、死んでから迷っているなんて信じられないよ・・・。

【お助けマン】 それはそうでしょう。 大阿闍梨が死後に迷っているなんて、誰も信じられないでしょうね。 でも、これは事実ですよ。

【Aさん】 そもそも悟るために、大変な修行をされたと思うんだが、 なぜ死後迷ってしまったのかね。

【お助けマン】 私もその書籍を読みましたが、 悟りとは何かが分かっていなかったのではないかと思うのです。

【Aさん】 でも、千日もの間、山の峰を歩いたというのは大変な修行だよ。 それも二回だよ。 それほどの難行苦行の修行をしたならば悟れると思うけど・・・。

【お助けマン】 確かに釈尊は悟るまでの六年間、難行苦行をされました。 これは仏典にもはっきりと残っています。 しかしながら、よく仏典を読んでいただきたいのです。釈尊は、苦行の中に悟りなし、 また、快楽の中にも悟りなしと見抜いて、「苦楽の中道」にこそ悟りの道があると悟られたのです。 そして、菩提樹の下であの偉大なる悟りを開かれたのです。 つまり、残念なことに、釈尊が悟れなかった苦行を悟れる修行のように誤解してしまった人がいるということなのです。

【Aさん】 そうだったのか。苦行では悟れなかったんだ。 でも、いまだに悟るために、山を歩いたり、滝に打たれたりする人が出てくるということはどういうことだろうね。

【お助けマン】 再誕の仏陀である大川隆法総裁は、今から20数年前に説法をし、 既にそのことについておっしゃっていたのです。 その説法が、 『幸福の科学十大原理(上)』の第4章「悟りの原理」のところで、次のように説かれています。

悟りに至る方法としては、さまざまなものがあるでありましょう。 しかしながら、単に山のなかを歩いたとか、滝に打たれたとか、こうしたことでもって悟ることは、 絶対にできないのであります。悟りに至る道は霊的自覚の道であります。 霊的自覚に至るためには、この世的でないものを知る必要があるのであります。 その自分の価値観の大逆転が起きたとき、すなわちこれが、 悟りへの第一歩になるわけであります。

と述べられて、山を歩いても絶対に悟れないことが示されています。

【Aさん】 えー、そうなんだ。山を歩いたり、滝に打たれても悟れないんだ。

【お助けマン】 そうです。さらに、大川総裁は、その中で非常に重要なことをおっしゃっています。 つまり、「反省なくして悟りなし」と、説かれているのです。
そこのところもご紹介いたします。

みなさんがたは、こうした真理に触れる以前に、日々自らの思いと行い、 想念のあり方、こうしたものを考えたことがあったでしょうか。 そうしたことは、おそらく、小中学生の時代に、あるいはご家庭において、 道徳的な話として反省の徳目というものを教えられたことはあったかもしれません。 ただ、その「反省の原理」というものが、神の子の本質を掘り出し、見いだすための原理であり、 本来の悟りに至るための方法であるということは、 教えていただけなかったのではないでしょうか。
今から二千六百年前、インドにおいて釈尊が説き来たり説き去った教えも、 まずその原点は「反省」ということにあったのです。

と、述べられています。

【Aさん】 そうか、「反省なくして悟りなし」なんだ。 でも、この「酒井雄哉 日本天台宗 大阿闍梨に引導を渡す」の本の233ページに、こう書かれているよ。

酒井雄哉
いや、わしは、人生を振り返らないことにしてるんですよ。
斉藤 [質問者]
(苦笑)それでは「反省」と逆じゃないですか。
酒井雄哉
まあ、覚えてはいるけども、それを”振り返らないため”の千日回峰であり、それを”超越するため”の千日回峰だからね。
小林 [質問者]
つまり、それに”目をつむるため”の千日回峰だったわけですね。

と、酒井雄哉大阿闍梨は、反省とはまったく逆のことを言っているね。

【お助けマン】 これでは悟っていないことを正直に表明しているようなものですね。 「反省なくして悟りなし」の仏言は、大宇宙の真理であり、また法則です。 従って、誰もこの法則を無視して悟ることはできないということなのです。
もし、歩いたり走ったりすることで悟りが得られるならば、 オリンピックのマラソンの選手が、一番悟っていることになるでしょう。 ですから、悟りとは、そもそも心(心境)の状態を言うのであって、 外見や体をどのように動かすかということには関係がないのです。 修行者らしい衣を着ていたら悟れ、背広ならば悟れないということはありませんし、 また、体の動かし方や、体をどのように傷めつけるかと言うことにも全く関係がないのです。 要は、外見ではなくて中味(心)が大事であるということなのです。

【Aさん】 あー、よく分かったよ。 確かに、人は、外見やふるまいに騙(だま)されてしまうんだ。 例えば、白衣を着て聴診器を首からぶら下げていたら、医者に見えてしまうものね。 医者とは、医学の知識があって、手術などの施術ができる人のことを言うよね。 それと同じなんだ。 僕も、あの大阿闍梨のスタイルにすっかりと騙されてしまったね。

【お助けマン】 そうです。ニセモノほど形で騙そうとしますので注意が必要です。 かつて、オウム教の麻原が、法衣を着て髪の毛が長いことでもって日本中の人びとを騙しましたが、 それと同じでしょう。

【Aさん】 そうそう、そうだったね。 さらに、その騙された中に仏教学者も居たなんて驚きだったよね。 それほど中味で判断することは難しいことなんだ。

【お助けマン】 だから、智慧が大事なのです。 ものごとの本質を見る目がなければ、外見だけで判断してしまいます。 これを智慧がないと言うのです。

【Aさん】 いやー、今日もいい勉強になったよ。 僕も元はジャーナリストなので、人のうわさとか見てくれだけで判断しないようにしてきたが、 それにしても、大阿闍梨を大々的に取り上げて放映したテレビ局などは、 オウム教のときと同じ過ちを犯しているんじゃないの。 これこそ「大反省」だね! ありがとう。じゃ、今日はこれで帰るよ。

と、言ってAさんは帰られました。
今回、大川総裁は、137分にわたって死後の迷いの中にあった酒井雄哉大阿闍梨に引導を渡して救済をされました。
しかしながら、仏陀から直々に説教して頂けれるのは、まれのまれと言っていいでしょう。
今後も真理を知らず、ただ形だけで修行をしている修行者が、死んだあとにどうなるのか、 想像するだけでもゾッとするのは、おそらく私だけではないでしょう。 従って、彼らが、死後迷って地上の人々に憑依しないためにも、 この書籍ができるだけ多くの人々に読まれることを願うばかりです。

では、次回も問答が続きます。  主エル・カンターレに感謝。

(終わり)