仏陀と共に同時代に生きられる喜び

本日は、Eさんをファイナル・ジャッジメントにお誘いし、そのご縁で、三帰誓願にまで導かれたFさんが来られました。

以下は、そのときの会話の模様です。

【Fさん】 先日は、私に代わって、Eさんに布施の功徳の説明をして頂き本当にありがとうございました。お御蔭さまで、Eさんは、そのあとすぐに植福をされました。
今日は、そのお礼にやって参りました。

【お助けマン】 お礼なんてとんでもないです。それは、Fさんが伝道されたからこそ、私も説明ができたのです。

【Fさん】 はい、私が伝道できたのも、主のお導きあったからこそと思っております。

【お助けマン】 ところで、せっかくおいで頂きましたので、もし、よろしかったらFさんの信者になられた時のきっかけなどをお聞かせ頂けませんか?

【Fさん】 はい、大した話しではございませんが、私のでよければお話しさせて頂きます。

【お助けマン】 大歓迎ですよ。どうぞお願いします。

【Fさん】 はい、分かりました。
実は、私は、非常に信仰心のある家庭に生まれました。祖父も祖母も、そして親兄弟もみな信仰がありました。それで、私の通った幼稚園は、たまたまキリスト教系の幼稚園だったのですが、そこの幼稚園の先生からイエスさまのお話しをしてもらったり、また、クリスマスでは皆と歌を歌ったりしました。
それから、小学校か中学校かは忘れましたが、イエスさまとかお釈迦さまに興味がありましたので、学校の図書館で、確か偉人の生涯という題だったのと思うのですが、イエスさまとお釈迦さまのことを知りました。そして、そのとき感じたことを、今でも覚えていますが、子供心に思ったことがありました。

【お助けマン】 それは、どういうことですか?

【Fさん】 はい、私は、なぜイエス様やお釈迦さまがお生まれになったときに生まれられなかったのかと・・・。こんな時代に生まれてしまって本当に残念だと思ったのです。私は、仏陀や救世主が生まれておられる同じ時代と同じ土地に生まれて、お話しを是非とも聞きたかったと思ったのです。そして、もし、タイムマシンのような機械があるならその時代に行ってみたい。そう思ったのです。

【お助けマン】 それは、もう子供のころから菩提心があったということではないですか。それで、どうされたのですか?

【Fさん】 それで、その後、そのことはずっと忘れていて、学校を卒業して就職し、職場で出会った今の私の主人と結婚し、子供も生まれたのです。それで、ある日、育児関係の本を探しに書店行ったのですが、育児関係の本のとなりに、どういう訳か、たまたま『太陽の法』の本があったのです。
そのとき、パラパラと読んだのですが何かすごい内容で、それで、この本を買って帰りました。

【お助けマン】 それで、全部読まれたのですか?

【Fさん】 はい、一気に読んでしまいました。確か育児もあって3日ぐらいはかかったと思いますが、全部読みました。それで、びっくりしたのです。お釈迦さまが生まれ変わっておられるらしいと。こんなことが起きるのかしらとも思いました。でも、その時は、まだ完全に納得した訳ではありませんでした。

【お助けマン】 それで、どうされたのですか?

【Fさん】 それで、そのあと、大川総裁の本があると言うコーナに行って、2~3冊買って帰りました。その中に『仏陀再誕』もあったと思います。
それで、不思議なことなのですが、『仏陀再誕』を読むと、胸からつきあげるものがあって涙が流れたのです。そのとき、私は、これは本物だと思いました。それで、さっそく、幸福の科学に入会して三帰誓願をいたしました。

【お助けマン】 そういうことだったのですか。感動的なドラマですね。

【Fさん】 はい、それよりもっと驚いたのは、子供のころに仏陀や救世主の時代に生まれたいと思っていた以上のことが、今、この日本に起きていると分かったのです。
大川総裁が、実は、お釈迦の生まれ変わりでも、本仏であるということが分かったのです。また同時に、大川総裁が、仏陀もイエスも、全ての光の指導霊をもこの地上に送り出された、主エル・カンターレであったことも分かったのです。
それは、もう感激でした。子供のころに思った残念の思いどころか、これ以上の時代はないというくらいの時代に生まれていたということが分かったのです。それは、もう天にも舞い上がるほどの喜びでした。それから、ウキウキワクワクで・・・。

【お助けマン】 そうでしたか。その感動は本当に大事だと思いますよ。
でも、当初は、非常に感動しても、その感動が、段々と薄れていくようなことがないようにしないといけないと思うのですが、何か心がけておられることがありますか?

【Fさん】 はい、私は、当初の感動が持続するように、支部に行ったり、また、精舎の研修にも行くようにしています。
そこで、私は不思議に思ったのです。なぜ、この奇跡の時代にせっかく信仰を持った人が、その後、信仰を失い退転するようなことがあるのだろうかと思ったのです。
それで、色々と考えたのですが、仏陀にめぐり会えたということが、奇跡であるにもかかわらず、いつでもお会いできると言うことで、当たり前のことになってしまったのではないだろうかと、そしてさらに、大川総裁が、普通の人とあえて変わらないように生きておられる姿を見て誤解をし、肉体と霊の違いが分からなくなったのではないかと思ったのです。

【お助けマン】 そうです。よく気がつかれましたね。つまり、「仏に三相あり」(参考1) と言われているように、どうしても、仏の本当の姿を見られずに、肉体の姿を見てしまうのです。また、銀の「さじ」のたとえのように、銀のさじはいつもスープに身近に浸(つ)かっているが、その味を知ることがないと仏典にもあるのです。結局、あまりにも近くにいるがために、仏の真の姿が見えなくなってしまったのです。

【Fさん】 だから、元夫人や元職員のように、かえって身近に居た人のほうが退転者が居るということですね。

【お助けマン】 はい、ですから、今や、かえって海外の信者のほうが信仰の思いが高まってきているのです。だから、今、日本は危ないのです。
ところで、私は、信仰心を高めたり維持するには、二つの道があるように思っています。一つは、教学を深め、修行に打ち込み、悟りを高めることによって信仰心を高める方法です。もう一つは、もうこれだと思ったならば、理屈抜きに、ただひたすらに信じる方法ですが、この二つの方法があるように思います。そして、それらをさらに確固たるものにするために霊的体験があるように思います。

【Fさん】 私は、主婦ですので、もうこれだと思うと、理屈抜きで何があっても信仰を離さないタイプだと思います。

【お助けマン】 そうですね。男性は、どちらかと言えば教学によって信仰心を日々鍛えるほうが得意かも知れませんね。ですから、先日来られたEさんが、たとえ仏陀が地獄に堕ちても、私はついていくと言われていましたが、もう確信を持って信じたならば、世の中の批判や、たとえ、どのようなニセ情報を山と積まれたとしても、その信仰は揺らがないものになるということです。
ただ、この一途(ず)に信じるタイプは、決して盲信や狂信ではないところが邪教との違いでしょう。なぜなら、信じる過程で、教えの内容や信者の方々をしっかりと見て、 そして、これは正しい、本物だと思って、あとは一途に主を信じるというプロセスがあるように思います。
一方、今、ブラック・サイトなどで書き込みを行っている転落者は、教学を怠ったということでしょう。仏教では、3ヶ月学習を怠ると、ただの人、あるいは、ただの人以下になると言われていますが、まさにそのとおりになったということです。

【Fさん】 本当に、大川総裁のおっしゃるとおりだったですね、仏典に、「仏に偽りなし」とあると聞いていますが、本当にそのとおりですよね。

【お助けマン】 今や、何があったとしても、理屈ではなく、大川総裁を仏陀であり救世主であると、信じる段階に入ってきたようにと思います。
ですから、週刊誌のニセ記事や、ブラック・サイトの批判などは、犬の遠吠えのように、信者に対しては何ら影響をなさないものと言えます。
それも色々な出来事によって、私たちの信仰心が鍛えられた証拠と思います。週刊誌さんや批判者さんたちに、ありがとうと言うつもりは全くありませんが、その都度、私たちの信仰心を鍛えてもらったのではないかと思います。

【Fさん】 はい、私も、これから先、たとえ何があっても信仰を手放さない覚悟です。やはり、必要なときに必要な修行が現れるということですね。今日は本当にありがとうございました。では、これで失礼いたします。

と言って、Fさんは帰られました。この宇宙を創られた主エル・カンターレが、悪魔の存在をも許されている意味が分かったように思います。主エル・カンターレの偉大性と慈悲を、またまた発見させて頂いた次第です。合掌。

(参考1)仏に三相あり(信仰と情熱』第3章「心中の悪魔と戦え」四「ミカエルの章」「仏に三相あり」参照とは、仏には、法身(ほっしん)、報身(ほうしん)、応身(おうじん)があると述べられています。
以下、その部分を引用してお話しします。

 仏典の中にもありましょう。仏の本当の姿、それを「法身(ほっしん)」と言います。私の法身を見ている人は、まだいないのです。
そして、この法身がさらに姿を変えたものとしての「報身(ほうしん)」と言われるものがあります。この報身とは、本来の法身が、その姿を衆生に示すことができないがゆえに、かりに高級霊のような姿を借りて出てくることを言います。かりに如来だとか、菩薩とかいう名前で現れてくることを言います。釈迦如来であるとか、天照大神であるとか、こういう名を借りて出てくる姿を、報身(ほうしん)あるいは報身(ほうじん)と言います。
そして、さらにそうしたかたちをとった高級神霊が、地上にごくまれに肉体を持つことがあります。これを「応身(おうじん)」と言います。この地上の三次元世界に合わせて、その姿で出てきているということです。
仏に三相あり。そして、その三種類の現れ方をします。今、みなさまが見ている私は、この応身の部分です。三次元に姿形をとって出ている部分です。それは、みなさまとそう変わらないものがあります。そう変わらないように生きています。
しかし、その奥にある報身は、法身は、みなさまがたの目には見えないはずです。これが見えないからこそ、つまずくのです。

と、あります。
(終わり)