入会したばかりなのに、支部で布施を勧められました

ファイナル・ジャッジメントの映画に感動して入会された Eさんが来られました。そのEさんが、会員の友人に誘われて支部に行かれたときの感想をお聞きしました。

以下は、そのときの会話の模様です。

【Eさん】 初めてお目にかかります。私は、つい先日、私の友人に誘われて、ファイナル・ジャッジメントの映画を観てきました。それで、その映画に、すっごく感動し、これも、その友人のお勧めだったのですが、仏陀がこの日本に再誕されていると聞いたものですから、それを素直に信じて、三帰誓願をいたしました。

【お助けマン】 それは、本当におめでとうございます。まさしく、Eさんにとって、第二の誕生日(トワイス・ボーン)となりましたね。

【Eさん】 はい、ありがとうございます。今でもワクワクしています。
それで、先日、支部に連れてもらったのですが、支部のリーダだと思う方から、大学の創設や、新しい精舎建立のためのお布施のお勧めをいただいたのです。

【お助けマン】 それは、良かったじゃないですか。それで、どうお答えされたのですか。

【Eさん】 実は、いきなりだったものですから戸惑いました。私は、入会間もないし、まだ幸福の科学の内容も理解していないのに、それで布施をして下さいと言われても・・・。
そこで、お聞きしたいのですが、布施と言うか、幸福の科学では植福と言うらしいのですが、そのお勧めをいつもなさっているのですか?

【お助けマン】 もちろん、支部によって色々だと思いますが、布施のお勧めも「勧進」と言って、かつて行基菩薩も行った尊い行為ですから、リーダの信者さんたちは、何らかの形で勧進の実践はされていると思います。

【Eさん】 それは分かるのですが、でも、何しろ私は入会したての会員ですので、お勧めの前に幸福の科学の教えについてや、また布施の意義についても、正直、先に説明して欲しかったと思います・・・。
もし良かったら、その布施なるものの意義を教えて頂けませんか?

【お助けマン】 はい、喜んでさせて頂きますが、あとで支部長からもお聞き下さい。布施の行為自体は、宗教にはつきものですが、誤解しますと、まるで企業のような扱いになってしまいますので、よく理解することが大事かと思います。

【Eさん】 じゃ、企業の扱いとは、どう違うのですか? ご本尊もお布施と聞いていますが、販売ではないのですか?

【お助けマン】 はい、販売とはまったく違います。販売とは、物品やサービスを提供して対価を得る行為のことを言います。ところが布施とは、対価が発生しないのです。あくまでも、感謝の心でもって差し出す行為を言います。

【Eさん】 それで・・・。

【お助けマン】 少し専門的になりますが、仏教では、よく布施には、財施、物施(財施に含められる場合もある)、顔施、法施がある(『釈迦の本心』第3章「六波羅蜜多の思想」P.112と言われています。
財施や物施は、在家の方々が出家者の生活やその修行を支えるために行うもので、顔施は、文字通り笑顔です。そして、法施は、教えや法を他人に伝えたり、教えたりすることで、主に出家者や、在家でも法をよく理解している人たちが、人々に対して行う行為を言います。そして、これらに共通していることですが、企業の販売ではないため、布施を行ったことに対する見返りはないのです。ただひたすら差し出す行為のことを布施と言います。

【Eさん】 それは分かるのですが、それでは、布施した人が損するばかりじゃないですか。

【お助けマン】 そこなんです、難しいのは・・・。ところで、Eさんは、幸福の科学の教えの中に、「縁起の理法」があることをご存知ですか?

【Eさん】 はっきりとは分からないのですが、因果応報と言うか、原因と結果の法則と言うものではなかったでしたっけ。

【お助けマン】 そのとおりです。簡単に言えば、宇宙には法則があって、原因があれば必ず結果が現れるということです。布施という行為は、もともと、与えられていることへの感謝の心から発生する行為です。太陽の光も、空気も、水も、そして、食べ物も全て天から与えられたものです。その与えられたことに対して感謝し、報恩する行為として行われるものです。だから、なんら見返りを求めるものではありません
しかしながら、それでは「縁起の理法」は、完結しないのです。つまり、布施という原因行為があるにもかかわらず、見返りがないが故に、結果が宙に浮いた形になってしまうのです。ところが、ここが非常に重要な点なのですが、実は、宇宙の法則によって、必ず、結果の埋め合わせが行われます。しかも、その埋め合わせは、単に同じ量だけの埋め合わせではなく、10倍の埋め合わせ『ダイナマイト思考』第2章「天の倉に富を積む」)がなされるのです。
例えば、例がリアルすぎるかも知れませんが、100万円の布施をしますと1000万円になって返ってくるという意味なのです。

【Eさん】 本当ですか! それを知ったら、誰でも行うじゃないですか。でも、預金通帳に、その1000万円が記入される訳じゃないでしょ!

【お助けマン】 もちろん、預金通帳に記入される訳ではありませんが、早ければ生きている間に、必ず、それが何らかの幸せの形となって返ってきます。これを「功徳」と言いますが、もし、生きている間に返って来なければ、あの世の天の蔵にその功徳が積まれるのです。
でも、当初から功徳を求めてはいけないのです。ここが難しいところですが、それが、実は、『植福功徳経』にある「功徳を求めぬ植福こそ、無限の功徳の始まりなり」の意味でもあるのです。ですから、その布施の結果としてやってくるお陰は、ありがたく頂いていいのです。

【Eさん】 分かりました。見返りは求めてはいけないのですね。見返りを求めると功徳も消えるのですね・・・。
でもね、ある会員の方から、植福をすると銘板に名前が刻印されるからと言って勧められたのです。これって、見返りを求めることではないですか?

【お助けマン】 本来、布施には色が付いてはいけないのです。ですから、名前が残るから植福するというものではありません。それは、すたれた伝統宗教が布施を集めるために行うことがあると聞いていますが、当会は、現在進行形の宗教であり、かつ、再誕の仏陀である大川総裁の偉大性と、布施の意義を説得的にお伝えすれば、誰でも布施をしないではいられなくなります。
ですから、布施とは、それだけ尊いものであり、かつ、透明感が求められるのです。これは、大川総裁の教えの中に、「愛は風の如く」(『信仰と愛』第1章「究極の自己実現」P.25)と言う教えがありますが、愛の中に見返りという砂が混じってはいけないのです。あの風のような透明な愛(布施)が求められるのです。

【Eさん】 よーく分かりました。布施は、強制されてするものではなく、自発的で、かつ、見返りを求めない透明な心ですることが分かりました。また、その功徳は10倍になって返ってくることも分かりました。
この事実を知ったなら、不謹慎な言い方かも知れませんが、誰でもが「やらなきゃ損々」と思っちゃいますね。私は、まだ入会したばかりですが、今日のお話しを聞いて、子々孫々のためにも、布施行に励みたいと思いました。・・・ 今日は、本当にありがとうございました。

と言って、Eさんは帰られました。やはり、今回のEさんとの会話の中で、信仰と法による布施、信仰と法による伝道の必要性を強く感じました。また、現在進行形にて法が説かれているからこそ、他の時代と違った誤解のない学びによる活動ができるのだと、改めて思った次第です。感謝。

(終わり)