エル・カンターレを深く理解することの難しさ
先週に引き続いてEさんがやって来られました。 Eさんは、エル・カンターレをもっともっと理解したいと言って来られたのです。
以下は、Eさんとの会話の内容です。
【Eさん】 先回の話しにはびっくりでした。 大川総裁は、本当に動物たちと自由に会話をされるんですよね。 それで、今日やって参りましたのは、もっとエル・カンターレのことについて知りたいと思ったからです。 だって神を知るということは悟りでもあると学んでいますので、是非、知りたいのです。
【お助けマン】 分かりました。 確かにおっしゃるとおり、神を知るということは悟りでもありますので、それは大事なことだと思います。
【Eさん】 そうでしょ、でも、最近では「宇宙の法」もお説きになったり、 また、例えば量子的飛躍だとかダーク・マターであるとか、もう、 科学の最先端の専門用語も出てきて、非常に理解するのに苦労しているのです。
【お助けマン】 確かにそのとおりでしょう。 会の発足当初では、書籍を繰り返し読むとか、あるいは、講演会や研修に参加することによって深く理解できるところがありました。 しかしながら、その後段々と法が進み、エル・カンターレの法を説き始められるようになってからは、 理解が難しくなったところがあるように私も思います。
実は、そのことについては、もう10年以上も前になりますが、 『永遠の仏陀』の改訂版が出されたときに、 その改訂版の「あとがき」で述べられているのです。
【Eさん】 えっ、そうなんですか! じゃ、そこのところ読んでいただけませんか?
【お助けマン】 はい、分りました。それでは読ませていただきます。
ある時には、静かに淡々と語られ、ある時には、厳(おごそ)かに胸を打つ言葉がつづられ、 仏陀の説法とはどのようなものであるかが、本書によって、あまねく人々に伝えられたと思う。
言葉の流れは、第5章『永遠の仏陀』に入って、激しく、かつ、急となる。 読者は、仏陀の奥にある「エル・カンターレ」の意識と姿を、一瞬、垣間見ることができる。 しかし、深くは理解しなくてよい。釈迦とキリストの奥に存在(あ)る「光体(こうたい)」の煌(きらめ)きを、 かすかに、感じとるだけでよい。それから後は、実在界の神秘のままでよいのだ。(略)
とあり、それまでは理解することが大事だとおっしゃっていましたが、その逆のことを言い始められたのです。
【Eさん】 えー、そうなんだ。知らなかった。 私は、今まで出された本を、何度も何度も読み返し、 仏陀とは何か、エル・カンターレとは何かを知ろうと思って勉強してきたのに・・・。
【お助けマン】 いやいや、そう早合点しないで下さいね。 何も勉強しなくてもいいとおっしゃっているわけでは決してありませんからね。 真理の勉強は非常に重要なので、何度も繰り返して経典を読んで勉強することは、これからももちろん必要です。
しかしながら、たとえ何度勉強したとしても、 理解できないこともあるということをおっしゃっているのだと思うのです。
【Eさん】 それは、どういうことですか?
【お助けマン】 たとえは適切ではないかも知れませんが、 例えば、ここに30cmのモノサシがあるとします。 もちろん30cm以下の長さについては、簡単にそのモノサシで測ることができます。 30cmより大きいものも、何度がモノサシを当てることによって測ることができるでしょう。 もし、東京駅から品川までの距離を測ってくれと言われれば、面倒ですが測れなくはありません。 あるいは、もっと遠い名古屋や大阪までの距離でも非常に苦労すれば可能でしょう。
もし、この30cmのモノサシを私だとすれば、遠い距離を測ることが、 例えば、高級神霊と言われる方々を理解することと同じように思えるのです。
【Eさん】 するとエル・カンターレではどうなるのですか?
【お助けマン】 そうですね、例えば、太陽までの距離、いや、 宇宙の果ての距離を測ることにも似ているでしょう。
そもそも宇宙の果てがどのようになっているのか、 これは神秘に包まれていますので測りようがないのと同じで、 エル・カンターレも神秘に包まれているので理解のしようがないということだ思います。
【Eさん】 なるほどね。そういうことなのですか。 そのモノサシのたとえで説明していただいたのでよく分りました。 わたしたち人間の科学では解明できないことがあるということなのですね。
【お助けマン】 それは当然ですよ。 この宇宙は人間の理解をまったく超えるものがほとんどだということです。 その事実に対して人間は、あたかも科学が万能であるかのようにふるまってきたのです。 つまり信仰を忘れて、孫悟空になってしまったということなのです。
さらに、もう少しご紹介させていただけるなら、 会内経典の『君よ、涙の谷を渡れ』の中からも紹介させて頂きます。 173ページの、「ただ信じ、私についてきなさい」から読ませて頂きます。
当然です。この世の教育や、この世での経験や、この世の価値観では、 仏法真理の真の真なるところを測ることは、決してできないからです。だから、私は言います。
証明する気などありません。
ただ信じなさい。
ついてきなさい。
私についてきなさい。
わが言葉を信じなさい。
ついてきなさい。私がこの世に現れるのは一瞬です。
その一瞬の機会を逃すことなかれ。
永遠の後悔を残すことなかれ。
決して、決して、来世において後悔することなかれ。
いま、真理が説かれています。
いま、真なる仏陀が地上に生まれ、
全世界の人々を救わんとしています。
残された時間は有限です。
あなたがたの力が必要なのです。
数多くの力が必要なのです。
それなくして、
世界の隅々(すみずみ)にまで、
この仏法真理を届けることはできません。
どうか、信じてついてきてください。
ただ、ついてきてください。
判断はしなくて結構です。
ついてきてください。
私についてきてください。
それが、いちばん単純化された信仰の姿です。
最後に、もう一度、言います。
君よ、涙の谷を渡れ。
これが、あなたがたに伝えたい私の言葉です。
と、・・・・・・・。
【Eさん】 よく分りました。もう言葉はありません。 理屈抜きにして信じられることも実力だし、立派な「悟り」であることがよく分りました。
涙をぬぐって今日は帰ります。ありがとうございました。
と、言ってEさんは帰られました。
人間は、すこし知恵をつけると自分で判断し、それを言いたがります。 しかしながら、人間と神とはもう比較のしようがないほどの力の差があります。 にもかかわらず、神を批判したり講釈を加える人がいるとするならば、 それは、もう、自分の存在を否定することと同じとなり、 その存在が消滅するのは、もはや時間の問題だけであると言えるでしょう。 なぜなら、もうすでに否定できない答えが出ているのだから・・・・。
では、次回も問答が続きます。
主エル・カンターレに感謝。
(終わり)