時間と空間の交差点に立つ自分とは?

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幸福の科学 真理問答

2013/02/24 毎週日曜日発行 

時間と空間の交差点に立つ自分とは?

 入会して半年のEさんは、最近、ずいぶんと真理の勉強に励んでおられますが、ときどき分らないところがあると言ってやって来られます。
以下は、そのときのEさんとの会話の内容です。

【Eさん】 こんにちは。今日は、 『沈黙の仏陀』の内容の質問でやって来ました。 『沈黙の仏陀』は、簡略に書かれてはいるのですが、内容が濃く分らないところがたくさんあるのです。
 
【お助けマン】 確かに『沈黙の仏陀』には修行論が説かれていますが、まさしく悟りそのものの解説書なので難しいでしょうね。 ただ、難解な悟りをこれ以上平易に解説することは難しいというレベルまで書かれていますので、 仏教のどの経文よりも悟ることができるのではないでしょうか。 ところで、どの部分をお聞きになりたいのですか?
 
【Eさん】 はい、第一章のところですが、今日、書籍を持って参りましたので、 その部分を読ませていただきます。25ページのところです。

 すべての時間的観点から見た場合に、
 すべてのものは流れ去っていくものである。
 そして、空間的観点から見ても、
 すべてのものには、本来、我なるものはない。
 自性なるものはない。
 永遠に続いていくもの、
 自分自身が生み出していく力によって続いていくようなものは、
 何ひとつない。
 現にあるものはすべて、
 それ自体で成り立っているものではない。
 何かによってつくられたるものであり、
 また、必ず滅びていくことが確定しているものである。
 それが、この世の存在である。
 時間において無常、
 また、空間において空。
 そのような思想のなかで生きている我とは何であるか。
 「我思う、ゆえに我あり」という思想もあるであろう。
 しかしながら、そのような時間的・空間的観点において、
 何ひとつつかみどころのない、
 そのような縦と横の交わる交差点、
 その十字架のなかで立っている我とは、いったい何であろうか。
 それを深く考えなくてはならない。 

 と、あります。
 何か気分的と言いますか、雰囲気的には分るような気がするのですが、 じゃ具体的に、その「縦と横の交わる交差点に立つ我」とは何を意味するかが分らないのです。
 
【お助けマン】 それはそうでしょう。それこそが悟りだからです。 ですから、これがスパッと分ったならば、もうそれで悟っていることになりますからね。
 
【Eさん】 それが分ることが悟りだったのですか。どうりで難しいと思いました。
 
【お助けマン】 とは言っても難しいと言ってばかりはおられませんので、私も探求中ではありますが少し考えて見ましょう。
 時間と空間の意味ですが、時間は、この世では時間が諸行無常で流れていくところがおそらくイメージできるでしょうね。 また、その時間はこの世だけの有限の時間ではなく、あの世まで含めれば無限に流れていく果てしない時間があると思います。 また空間ですが、この空間とはこの世の空間だけではなく、あの世も含む全ての次元の世界をも含んだ空間のように思います。

【Eさん】 でも私たちは、この世でしか生きられませんし、また命も有限ですので、 時間が無限と言われても実感が湧きませんが・・・。
  
【お助けマン】 実はね、この世の時間と言うのは永遠の時間の流れから見れば一瞬なのです。 私たちは、本来、あの世の住人です。霊としての存在が本来の姿です。 その私たちが、修行の必要性があって、何年、何十年、何百年の間隔でこの地上に生まれては来ますが、 本来的にはあの世の住人なのです。ですから、軸足をあの世の本来居たところに置いてこの世を見たならば、 この地上に生まれ変わってくることは、例えば、映画の役者が、時々映画に出るようなものであって、 役者はちゃんと本来の自分の生活を送っているようなものなのです。
  
【Eさん】 そのような観点から見た永遠ですね。それなら分ります。 この世での人間の寿命は有限ですが、魂が転生輪廻しているという意味なら、それは無限と言えますね。 分りました。ところで、空間とはあの世をも含んだ空間だと言われましたが、その時間と空間の交差点とはどういうことを意味するのですか?

【お助けマン】 よい質問ですね。この交差点という言葉がこの意味を理解するキーになるかも知れませんね。
  
【Eさん】 と、言いますと?

【お助けマン】 交差点とは文字通り「点」です。 ところが私たちは「縁起の理法」を学んでいるように、何一つ自性なるものはないが故に「点」だけで存在するものはありません。 つまり、この交差点は、時間的につながりのある「点」であり、また空間的にもつながりのある「点」なのです。 つまり、今この時間、この場所に居る自分であっても、その一瞬をとらえればもちろん「点」になりますが、 それは、永遠の時間の流れの中の「今」であって、また膨大なる宇宙の中の「この場」なのです。
 
【Eさん】 つまり、自分は今、この場にこうして居るが、それは偶然に今ここに居るわけではないと・・・。

【お助けマン】 そうです。ですから、永遠の時間の流れと、膨大な宇宙の中で、 なぜ、自分は今この時間のこの場にいるのかを考えることが、自分を達観し、全体から自分を知ることができるということなのです。
 
【Eさん】 その達観とはどういう意味ですか?
  
【お助けマン】 つまり、自分を客観視して、外からどのように見えるのか、自分で知れということです。 そして、それはすなわち自分自身の本当の姿を知ることに他なりません。
 
【Eさん】 自分の本当の姿を知れと言えば、鏡を見ればいいと言う人が出てくるように思いますが、 そのような狭い意味ではないということですね。
  
【お助けマン】 もちろんです。よく気が付かれましたね。 実は、自分の本当の姿を知るということが悟りでもあるのです。

【Eさん】 なるほどね。その次から続く文章の意味が初めは分りませんでしたが、 何か分ってきたように思います。そこには、続いてこのように書かれています。

 そうしてみると、
 実は、本来の自己なるものは、
 この肉体のなかに宿って、
 特定の名前を持ち、特定の両親を持っている
 あなた自身ではないはずである。
 おそらくそうではない。
 空間的にも時間的にも、
 一切が、つかみとることができない。
 そのなかに生きている我のみを、
 ほんとうにつかみとることができるのだろうか。
 そうではない。
 その我というものも、
 実は、仏の永遠の時間と空間なかで、仮に存在あらしめられ、
 その掌(てのひら)において、遥(はる)かに見えている存在である。
 川にたとえるならば、
 その川のなかを流れていく泡沫(うたかた)、
 その泡(あわ)にしかすぎない。
 そう、いつか川の中から、水の中から生まれ、
 そして必ず消えていくことになっている泡沫の自分。
 その自分が、その泡沫のごとき、泡のごとき自分が、
 「自分とはいったい何であるか」ということを考えている。
 考え、考え、考え、考え抜いて、
 そして永遠の実相なるものをつかみとっていく―――。
 そこに涅槃寂静の境地が開けてくる。
 すなわち、自分というものを通して、
 仏の本来の姿を、その意図を、
 その光なるものを見抜いていくこと。
 そのためには、
 己(おのれ)というものを、
 限りなく、空しく空しくしていかなければならない。 

 と、あります。
  
【お助けマン】 本当にしっかりとありますね。「自分とはいったい何であるか」これを、この限られた三次元の世界で、 考え、考え、考え、考え抜くことが、実は、私たちがこの地上に生まれてきた意味だということでしょうね。
 
【Eさん】 はい、何か分ってきたように思います。自分は、点ではなく、時間的にも空間的にもつながっていることを発見することですね。
  
【お助けマン】 そうです。時間的には、自分の魂が創られてから転生輪廻を繰り返し、 過去世でなしたことによって今世があるということ、そして、空間的には「魂の系統樹」があって、幹から枝が分かれ、 そのつながりによって魂が創られ、その根本の根っ子に仏がおられるということ、 これをまず知識で理解し、またさらに実感としても理解することが大事なのです。実は、それを実感として感じるために、瞑想という修法もあるのです。 ですから座禅も、これを実感として感じなければ座っている意味はないということなのです。

【Eさん】 いやー、今日は本当によく分りました。何か、悟りが進んだように思います。 今日、教えてもらったことは、仏教のお経を読んでも分らないことですね。 まさしく、仏陀が再誕されているからこそ、釈尊の教えの奥義が分るということですね。
 本当にこの時代に生まれたことに心から感謝いたします。では、今日はこれにて失礼いたします。ありがとうございました。

 と言ってEさんは帰られました。『沈黙の仏陀』50ページに、

「本書がいったい誰の思想によって著されているかを、あなた方はしみじみ悟ることになるでしょう。 沈黙を守りつづけた、その仏陀の声そのものが本書であるということを、もう一度確認されることを祈ります。」

とあり、大川総裁が、まさしく再誕の仏陀であることに一点の疑いの余地もありません。  主エル・カンターレに感謝。

(終わり)
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