シータと獅子丸翔のキスシーンの意味とは?

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幸福の科学 真理問答

2012/11/05  

シータと獅子丸翔のキスシーンの意味とは?

先回、映画『神秘の法』について聞きに来られた女性信者のGさんが、この映画の最後のところで、ベガの惑星から来たシータと、ヘルメス・ウイングスの獅子丸翔がキスをするシーンがあるのですが、それを見て驚いてやって来られました。
以下は、そのときのGさんとの会話の内容です。

【Gさん】 先回は、映画 『神秘の法』 は、宇宙人にも放映されているのではないかというお互いの意見が一致して嬉しかったです。
  
【お助けマン】 私のほうこそ、宇宙人の立場で映画を見るという新しい発見をさせていただきました。 ところで、今日、お聞きになりたいこととは何ですか?
 
【Gさん】 はい、その映画 『神秘の法』の最後のところで、シータと獅子丸翔がキスをするシーンがあったのですが、救世主のキスをどう考えていいのか分らなくなったのでやって参りました。

【お助けマン】 そうだったのですか。実は、この映画は、ベガの惑星の救世主であるシータと、地球の救世主である獅子丸翔が描かれていますが、その救世主がキスをしたということで、 結構びっくりされた方もいると聞いています。

【Gさん】 そうなんですよ。私もその一人だと思います。救世主という存在は、地上で悟りを開いて、肉体に起因する煩悩から解放されていると思っていたのです。

【お助けマン】 それで、キスシーンを見てびっくりされたと・・・。気持ちは分ります。

【Gさん】 はい、それで、どう考えたらいいのか、まだ頭の中の整理がつかないので聞きに来たのです。

【お助けマン】 分りました。では、考えてみたいと思います。
 先ほど、救世主は煩悩から解放されているとおっしゃったと思います。

【Gさん】 はい、そうです。

【お助けマン】 それは、そのとおりで煩悩から解放されており振り回されることはないのですが、では、聖人だからと言って肉体から出る欲はないのかということです。 どうも、私には救世主や悟りを開いた聖人に対するイメージが固定化されているのではないかと思われるのです。
 というのは、救世主はこの地上に下りられて法を説いて人々を救われるわけですが、その救世主が帰天された後に、その弟子たちが救世主の偉大さをさらに高めるために、 色々と工夫して伝説などを作ったのではないかと思うのです。
 例えば、イエスさまは、聖母マリアから生まれられましたが、神秘性と聖母マリアのけがれが無いことを示すために、 処女懐胎の伝説が創られたようです。 でも、この処女懐胎に関しては、大川総裁によるイエスさまの霊言などから、そういうことはなかったと現在明らかにされています。
 また釈尊に関しても、マヤ夫人の脇の下から生まれたという伝説があります。そして、生まれたお釈迦さまは、そのまますくっと立って、 あの有名な「天上天下唯我独尊」と言ったとされています。
 もちろん、救世主や仏陀は、神秘性に包まれており、また実際に奇跡も起きていますので、全てが伝説によって作られたと言うつもりはありませんが、 結構、後の弟子たちが先生の偉大さを高めるために伝説としたところがあるのです。
 特に性に関することなどは、宗教ではタブーとされたところがあったので、受胎や出産についてはこのように神秘化して、 救世主の無謬性(むびゅうせい)を確保してきたのではないかと思います。 従って、仏陀や救世主がキスをすれば、それでもって非常に驚く人が居るということではないかと思います。

【Gさん】 そうなんです。私には驚きでしたから・・・。
 例えば、キリスト教の修道院などでは異性は禁制となっていますし、仏教のお寺でも、高野山では母であっても女人禁制だったと聞いています。 従って、宗教ではそれが当たり前となっているし、私たちもそうなっているのが当然と思っていたのです。

【お助けマン】 実は、それが洗脳なのです。
 宗教では、異性は禁制であると、小さいときから頭に刷り込まれてきているのです。 確かに、修行中に異性のことばかりが頭に浮かぶようでは修行になりませんので、肉体から来るところの欲、つまり、食欲、性欲、そして、睡眠欲などを断つことが修行であるとされてきたところはあります。 しかしながら、そのような禁欲が人間の本質であるならば、体力が出ないし活動のエネルギーも出ません。そして、何よりも子孫を残すことができないのです。

【Gさん】 でも、聖なる人はキスをして欲しくないのです。
 
【お助けマン】 そこがまだ乗り越えられていないところではないでしょうか。
 つまり、世間の小さなしきたりや考え方にこだわって、大きなことを見過ごしているのではないでしょうか。
 そう言えば、曹洞宗の『原坦山(はらたんざん)和尚全集』にこのような話しがありました。

『原坦山は東京帝国大学で、仏教学を教えた人である。坦山が若いとき、もう一人の雲水(うんすい)と修行の旅をしていた。 大きな河に差しかかったが、橋も船もない。衣(ころも)を脱いで河を渡ろうとすると、若い女性が渡れずに困っている。 坦山は、なんのためらいもなく、「私が背負って渡してあげよう」といって、女性を背負って河を渡らせてあげた。 その後、二人はさらに旅を続けたが、しばらくすると、もう一人の雲水は「お前は出家の身なのに、女と接したことを恥じないのか」となじった。 すると坦山は「お前は、まだ、抱いていたのか。私は河を渡ったとき、すっかり降ろしてきた」といったという。』


 つまり、禁欲という形式ばかりにとらわれて、困っている娘を助けるという大事なことを忘れ去っているのです。 これも、頭が悪い証拠かもしれません。要は、

「何のための修行か」

ということです。 禁欲だけが修行ではないはずです。禁欲は手段で、それによって、多くの人々を救えなかったら、禁欲も意味がないということなのです。

【Gさん】 分りました。私は、形式だけにこだわっていました。その目的性のところが大事なのですね。

【お助けマン】 はい、そうです。私は、決して異性との淫らな行為を肯定しているわけではありません。 ただ、たとえ異性とキスをしたとしても、人類を救う法が説かれ、多くの人々が救われるならば、それで使命は充分に果たされているのではないかと言っているのです。

【Gさん】 いやー! そのとおりですね。何か私の中で形式主義におちいり、目的性のところが飛んで行ってしまいました。

【お助けマン】 ですから、難しいのです。人は、いつもごく小さな部分だけを取って、もっともらしいことを言うのですが、 全体の大きな部分を忘れてしまっているのです。ここは充分に、気をつけないといけないところです。
 これは、ブラック・サイトの批判者によく見られる傾向です。この考え方からブラック・サイトを見てみると、頭が悪いことがよく分かります。 些細なことにこだわって、大きな目的性のところを見るのを忘れてしまっていることがよく分ります。 おそらく批判者たちがこの問答を読むと、やっぱり救世主は女性との恋愛を肯定しているではないかと時代遅れのことを言うかも知れませんが、 それは、その洗脳が解けるのに時間がかかると言うことだと思います。

【Gさん】 分りました。目からウロコが落ちたようです。そう言えば。救世主だって好きな女性が居てもいいし、 いや、救世主だからこそ、愛がそれだけ大きいなら女性を情熱的に愛するのは当然だと思わなければいけないのですね。

【お助けマン】 そうです。今残っている宗教だって、ここ数千年ぐらいでその考え方が出来たものに過ぎません。 有史以前の宗教は、もっと違ったものであったかも知れませんし、また、宇宙人の宗教だってもっと違っているに違いないと思います。
 あと付け加えるとすれば、人気歌手のファンで、その人気歌手が結婚したりすると、がっかりするファンがいますが、 これは救世主に対しては通用しないのです。その歌手は、結婚相手だけを愛することになるかも知れませんが、救世主は、全人類を愛しているからです。 つまり愛にも段階があって、1対1の愛から、人類全体に対する慈悲のレベルの愛まであるのです。 ですから、自分に引き当てて、自分の愛と同じように救世主の愛を考えることが間違いだということです。
 従って、宗教はこうでなければならないと勝手に型にはめることから、人類は、早く解放されなければないないと思いますよ。

【Gさん】 あっ、そうか。そのために根本仏が肉体を持たれたのですね。だから映画の中にキスシーンもあって、 私たちの洗脳を解こうとされているのですね。根本仏が下生し、これから新しい宗教が始まるとなると、何だかワクワクしますね。
 今日も教えていただきありがとうございました。それでは、今日はこれで帰ります。

 と言ってGさんは帰られました。宗教に異性はタブーとされた時代が終わりつつあります。もちろん淫らな行為は論外ですが、 男女が愛し合って、お互いの存在を確認しあえるならば、これも人類全体を愛することの始まりであると思います。
 救世主は、人類全体を愛されるが故に、その愛は、どのような存在にも普遍的に注がれるのは当然と言えるのではないでしょうか。  エル・カンターレに感謝。

(終わり)
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